石川さんのように悲しい思いをする人を、生み出してはいけない
ただでさえ忙しい12月の最終日、石川さんの心が暗い影に覆われていったことに、限られた人数のスタッフが気づくのは厳しかったと思う。
なぜなら、忙しくなると「みる」のレベルが低くなってしまい、どうしてもぼんやりとみてしまうからだ。私は「みる」という行為には、いくつかのレベルがあると考える。認知症の方のケアをする場合、通常の見るではなくて、まずは足を運んで観る。そこでその方の様子を視て考え、そこから診たり看たりするレベルに到達するのだ。
例えば、喫茶店に入ったとき、目の前の人との会話に盛り上がり、他の席のことは、なんだかオブジェのように感じたことはないだろうか。認知症の方が問題を起こしてないからいい、という考えで接してしまうと、それは人ではなく物を見ていることと同じだ。廊下でぼんやり立っている人に、会釈もせずにその前を通り過ぎてしまったり、呼びかけられても、自分じゃないだろうと見て見ぬふりをしたりするスタッフがいる。
一方で、スタッフに気づいてほしくて、大きな声を出して呼びかけると、そんな大きな声を出さないでと窘められてしまう。これでは、ますますコミュニケーションの溝が大きくなるばかりだ。どんな行動をとっても、自分はいないものとして扱われる。そうなると、本人の存在意義はみるみる失われる。そしてやがて頭の働きが低下していくのだ。
慣れとは人の感覚を麻痺させる。誰もが初めは違和感を感じていたはずの施設のやり方に、3ヶ月もすれば慣れてしまう。おかしいなと思っていても、日常的にやり過ごしていると、それはいつしか普通になってしまう。
私は「みる」の解像度を上げていき、皆さんのささやかな望みに気づき寄り添うことを1つずつ実現していきたい。
もう石川さんのように悲しい思いをする人を、生み出してはいけないのだ。