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 演劇を始めるきっかけは19歳のとき、ビル掃除のバイト先に、パントマイムをやっている女の子が入ってきて実演してみせてくれたことだった。尾形はそれを見て自分が進む道はこれだと思い、まもなくして無試験の演劇学校に入る。

 学校は2年で閉鎖され、そこで知り合った森田雄三が主宰する演劇塾に参加。だが、メンバーが意見の衝突などから1人、2人と去り、演じ手として残ったのは尾形だけとなる。彼が一人芝居を始めたのは、こうした事情からだった。1980年には森田の演出により、初めての一人芝居の公演を東京・中目黒の地下劇場で行う。このとき、公演の裏方の作業を森田の妻・清子が取り仕切り、資金も捻出した。以来、約30年にわたり、森田夫妻がそれぞれ演出家、マネージャー兼プロデューサーとして尾形の活動を支えていくことになる。

人間観察を一切しないわけ

 初めての一人芝居で、尾形はバーテンを2時間にわたって演じた。そのため事前にスナックへバーテンの観察に行ったものの、暇な店だったのか、バーテンはカウンターのなかに突っ立ったまま、ほとんど何もしなかった。

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 翌日の稽古では、そこでバーテンがした唯一のそれっぽいしぐさ(指先をチョコチョコと前掛けで拭く)を森田にやって見せたものの、これではとても2時間持たないという話に落ち着き、いっそ「退屈なバーテン」を試してみようと、あれこれ想像をふくらませながら演じることになる。

若き日のイッセー尾形 ©文藝春秋

 現在にいたっても、日常的な役柄を演じる場合でも人間観察は一切しない。《観察したところで、それ以上のものは舞台では反映できない》というのがその理由だ(『週刊ポスト』2019年11月22日号)。普通の人を観察にもとづいて演じても、舞台は相当のボルテージがある空間なので、観客の視線に耐えられないという。

俳優か、コメディアンか

 一人芝居の公演と並行して、オーディション番組『お笑いスター誕生!!』で注目されたのをきっかけにテレビにも進出する。80年代の出演ドラマでいえば、『ビートたけしの学問ノススメ』でのたけし演じる主人公の長兄役(ちなみに実年齢ではたけしのほうが尾形より5歳上)や、戦前・戦中の愛媛を舞台にした『花へんろ』での靴屋役などが筆者の記憶に残る。いずれもコメディリリーフ的な役どころであったが、当時小学生だった筆者は、一体この人は何者だろう? と思っていた覚えがある。年齢不詳だし、俳優ともコメディアンともつかなかったからだろう。