じつは当の尾形も長らく自分の位置づけを判断しかねていたふしがある。1993年にドイツで公演を行ったときには、現地の新聞記者に《十何年僕はお笑いでも演劇でもないところでやってきた》と口にしたという。するとその記者は《椅子と椅子の間に座るという諺(ことわざ)がドイツにはあるんだけれど、君のやっていることはそれだね。架空の椅子に座ろうとしているんだから疲れるのはもっともだ》と労ってくれたらしい(『AERA』1998年9月14日号)。
役作りは「外側」から
海外公演は1992年より始め、各地で好評を博した。これと前後して、桃井かおりと二人芝居を1990年からたびたび上演していた。尾形にとって桃井はお互いに心を許せる芸能界では数少ない相手のようだ。あるとき、桃井のほうから芝居のことで行き詰まっていると尾形に相談したことがあったという。これに対し彼は《当たり前だよ。ずっと桃井かおりばっかりやってたらそうなるさ。でも桃井かおりというキャラクターが作れたんだから、あとはどんなのだって演(や)れちゃうよ》と言ってくれ、それが彼女には新鮮だったとか(『婦人公論』1998年8月22日号)。一人芝居で多くのキャラクターを演じてきた尾形らしい答えではないか。
一人芝居ではさまざまな職業の人を演じたが、その際、バーテンなら蝶ネクタイにワイシャツという具合に、人を「制服」としてとらえながら演じていたという(『學鐙』2021年春号)。もともと役を外側からつくっていくのが好きなタイプである。ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督の映画『太陽』で主人公の昭和天皇役を依頼されたときには、《陛下のいでたちをした写真を送ってくれ、と言われて、顔にテープを貼ったりして作りました》という(『婦人公論』2022年3月号)。前出の大河『青天を衝け』での三野村利左衛門役は、まったく印象の違う2枚の肖像写真――何を考えているのかわからないボーッとした表情のものと、どんぐり眼でグッとにらんでいるもの――を参考にして交互に演じた(『NHK大河ドラマ・ガイド 青天を衝け 完結編』NHK出版)。
「もう一人芝居はできない」
60歳のとき、大きな転機があった。それまで一人芝居を一緒につくり続けてきた森田雄三から「もう一人芝居はできない」と切り出されたのだ。尾形はまだできるんじゃないかと思ったが、「そうか、じゃあ1回離れよう」と森田と袂を分かった。こうしてフリーに転じるも、《その後、ガクッときた。「もう舞台がないんだ」と思うとたまらなくて、でも「じゃあ何をやりたいか」と思っても何も浮かばない》という一種の真空状態に陥ってしまう(『週刊朝日』2022年12月16日号)。
そこへたまたま夏目漱石の小説を一人芝居にしないかという話が舞い込む。とはいえ、漱石の主人公はいずれもカラーがついている。そこで尾形が目をつけたのが、まだ手つかずの脇役たちだった。一人芝居で普通の人々を演じてきた彼らしい発想だ。これは『妄ソーセキ劇場』と題して2015年に初演、シリーズ化される。さらに2018年からは太宰治やゴーゴリなど国内外の文豪作品を演じる『妄ソー劇場』も始めた。
同じく2018年、森田雄三が再び一緒に仕事をすることなく死去。かつて森田に対するアンビバレンツな思いを「尊敬と侮蔑」と表現した尾形だが(『AERA』1998年9月14日号)、彼の死後、《いま思えば彼と一歩一歩築いてきた人生は幸せだったかもと感じます。いま僕はある意味、彼の遺志を継いでいる。何かを託されたという気持ちもある》と語った(『週刊朝日』2022年12月16日号)。