毒入り肉を食べたクマに這って忍び寄り…
帯広から増援で駆け付けた安藤一尉も加わって作戦会議が行われ、毒入りの豚肉が出没予想地点に撒かれた。そして、湿原に埋設した毒入り豚肉が掘り起こされているのが確認されると、戦車1両と自衛隊員25名が周囲を包囲、捜索し、毒で苦しみ川で水を飲んでいるクマを発見した。
湿地帯を腹ばいで進み、クマまで30メートルに接近すると、安藤一尉と古多糠農協秘書長が立ち上がり、ライフルと散弾銃でクマを射撃。頭部に4発の銃弾を浴びて倒れたクマは250キロ以上もある大物だったという。
こうした自衛隊による駆除の他、町ではクマ1頭の駆除につき2万円の報奨金を出していた。当時の国家公務員(キャリア)の大卒初任給が1万5,700円だから、現在の価値にすれば30万円近くになり、それだけ地域の切迫感が窺える。この報奨金、トラックが飛び出してきたクマを跳ねて殺してしまった事例でも支払われ、思わぬ大金に運転手が喜んだことも伝えられている。
毎日新聞社会部による『日本の動物記』によれば、この1962年の標津町での熊害は、猟師2名、牛18頭、馬5頭、羊3頭が殺されたとされるが、資料により被害頭数にかなりのブレがある。負傷した家畜ははるかに多いだろう。最終的に猟師や自衛隊による捕殺や交通事故等によって25頭捕殺され、熊害事件は一旦は幕引きとなった。
今、自衛隊への協力要請は果たして…
この熊害事件を受け、陸上自衛隊で北海道全域を所管する北部方面隊のトップである方面総監は、クマ対策の研究を指示している。学識者や自治体関係者、報道関係者らの協力、動物園での実験も行うなどの調査研究を経て、隊員向けの冊子として『熊百訓』が制作・配布されている。この『熊百訓』は一般向けにも販売されたが、1963年に昭和天皇が那須御用邸に滞在中、近くにクマが現れたために本書の問い合わせがあり、昭和天皇に献本されたという。
60年代に各地を騒がせたクマ騒動も、狩猟者登録数が最大に達した70年代以降は落ち着きを見せる。ところが、半世紀以上の時を経て、再び自衛隊に対する害獣対策への協力要請が来たわけだが、当時と今では自衛隊を取り巻く環境は大きく変化している。創設から間もない頃の自衛隊といえば、「愛される自衛隊」を標榜し、田植えの手伝いや公共工事も請け負っていた。
しかし、現在は任務の多様化によって、自衛隊の現場に負担がかかっていることが伝えられている。害獣対処できる主体が自衛隊に限られない以上、これ以上自衛隊の負担を増やすのはいかがだろうか。