“育児に取り組む親を護る”ことこそ真っ先にしなければ
滝川一廣、内海新祐編『子ども虐待を考えるために知っておくべきこと』(日本評論社)の中で、精神科医の滝川一廣医師が基調論文を書いておられます。この本はぜひ子ども家族支 援に身を置く方に読んでほしい1冊です。
「現代日本はその不運な失調を「虐待」と名付けて養育者の自己責任による「加害」として 極めて否定的に扱う社会になったのである。……子どもを本当に守りたければ何よりも“育児を護る”すなわち“育児に取り組む親を護る”ことこそ真っ先にしなければならない」
「子育ての失敗や失調について断罪(すなわち自分たちとの切り離し)をするのではなく、誰しも抱えるもの、自分たちにも起こることと共有し合い、支え合う社会でしか子どもを護れない」
滝川医師の書かれているこの文章を読んで、思わず私は「そうだ!」と膝を打ちました。
そして、「護る」を辞書で引きました。
「護る」=「攻撃(侵害)されることがないように防御すること」
そうなのです。まず社会が親を護らなければならないのです。
母親だけに背負わせるのか
昨今、乳児の遺棄事件が後を絶ちません。その事件には乳児の父親である避妊をしなかった男性は不在で、母親だけが罪に問われます。背後には力関係もあったかもしれません。それなのに、加害者として裁かれるのが母親のみになっていることに、憤りを感じます。
妊娠を誰にも言えず1人で出産した母たちに多く出会ってきました。彼女たちは未成年で頼る人がいない人、貧困で風俗で働いていた人、ハンディキャップがある人など、まさに困難を抱える被害者でもありました。その中で子どもを置き去りにしたり、子どもに手をあげてしまった母親もいました。しかしそれは、母親だけの問題なのでしょうか。
未婚未成年によるケースの多さを受け、親となる準備のない中での予期せぬ妊娠をした女性を対象に、妊娠SOS事業が各都道府県で実施されています。そこに来る彼女たちは、妊娠期に産むか産まないかの相談をすることもできませんでした。子どもを産むその日まで、自身の妊娠を隠し通していた人が多くいらっしゃいます。
そこにはさまざまな恐怖があったと思います。選択肢もない状況だったのでしょう。そもそも、安心できる相手に相談するという経験自体が、これまでの人生の中でなかったことが推測されます。
私たちが支援を行う親たちは、母子家庭、両親家庭がほぼ同じ割合ですが、実際にプログラムに参加されるのは9割が母親になります。父親の参加は圧倒的に少数です。
その中で、子どもに手をあげたのが母親本人であったり、母親からSOSを出した場合、母親のみに親としての責任や内省が求められることが多々あります。
しかし養育者として父親の存在もあったはずです。父親は仕事があるから、面会や面接には来れない、という事情があったとしても、家庭引き取りの話も進めざるをえません。児相職員が父親の都合に合わせて夜に面接や家庭訪問をする場合もよくありますが、それでも会うことは簡単ではありません。ですから多くの場合、父親が不在の中で話し合いが行われることになります。