――お母さんを第一に考えての判断だったんですね。
鈴木 来月には悪化しているという宣告があるかもしれない、残された時間がどれだけあるかわからない状態ですからね。衝突を起こす決断はできませんでした。それで何も話さず、ただ黙って耐えて父を見送ったんです。
「ナマポという言葉がどんな人を傷つけるのか」と言ったことまで丁寧に説明すれば父は聞く耳を持ってくれたかもしれない。けれど、今もってそれができたのか、した方がよかったのか、自分の中ではこたえが出ません。
父親を“戦力外”の人と認定してしまった14歳の頃
――親のことって知っているようで知らないことが多い気がします。
鈴木 本当にそうですね。僕と父親も闘病が始まる前まではそんなに接点がなくて、“正月に会う人”という感じでした。10代の頃から父との間に距離感があり、フラットな対話ができなかったことも大きかったです。
――距離感があったのには何か理由があるんでしょうか。
鈴木 僕は小さい頃から、いわゆる男性社会の文化やたしなみに一切馴染めず、興味のない分野とある分野で極端に学力差のある子どもでした。そんな僕にとって、多芸で多趣味で圧倒的に学力が高く、きちんと会社員生活にも適応できている父親は、それだけで「男性社会に適応した大人の男」代表に見えた。それで、過剰なコンプレックスを抱いていたんです。
何度か悩みを相談したこともあるのですが「そんなことはできて当たり前」という対応がほとんどで、無視されたこともある。そんな経験もあって、14歳くらいの頃には父のことを人生の助けにならない“戦力外”の人として認定していました。その頃から、僕は父という人間を見失っていたんだと思います。それが、最後の最後まで後を引いてしまったんです。
◆◆◆
鈴木さんは父親が他界するまで、本音で話しあうことは一度もしなかった。しかし、その後悔は鈴木さんをずっと苦しめた。「父は本当はどういう人だったのか」を探す決意をし、家族を巻き込んだ2年間の右往左往の後に、鈴木さんがたどり着いた結論とは……。(#2につづく)