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――お父さんが亡くなられた2カ月後の記事(デイリー新潮)では、お父さんについて「世の中のあらゆる知識を求めるフラットな感覚の持ち主」「高潔さと愉快さを兼ね備えた思慮深い人物」だと思っていたのに、という驚きを書かれていました。

鈴木 思い返せば仕事をリタイアした2002年頃から「(中国のことを)支那と言って何が悪い」「三国人は○○」と父は発言していたのですが、中国に留学したりハングルを学ぶところもあり、アジアの国に対しては親近感を持っていると思っていました。なので父の書斎に保守系論壇誌の「正論」(産経新聞社)を見つけたときは中国や韓国に敵対的で刺激的なタイトルにギョッとしつつも、新しい知識をインプットしているのかなという感じで受け止めていました。しかし徐々に「月刊Hanada」「Will」など保守の中でも本流から外れた雑誌を読むようになっていきました。

「6時間、僕は自分の感情を全部封じ込めていました」

――お父さんは、自分のヘイト発言に鈴木さんが硬直していることに気づいていたんでしょうか。

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鈴木 病院へ送迎する日は朝8時ぐらいに迎えに行って、実家から帰るのが早くて14時ぐらい。その6時間、僕は自分の感情を全部封じ込めていました。なので、僕が強烈な嫌悪感に襲われて固まっていることには父も母も気づいていなかったようです。「ここで反論しても何もいいことはないな」と感じてしまったんですよね。

――「反論しても何もいいことはない」とはどういうことでしょう。

鈴木 母の前で争う姿を見せたくなかったんですよね。僕は母に対して、「父と仲良くできない息子で申し訳ない」という罪悪感をずっと感じていました。母は「自分が上手に仲介できなかったから夫と息子の間に距離感があるのだ」と自分を責めているフシがあって、それもわかっていたので父に反論することはできませんでした。

鈴木さんの父親が書いていたメモ書き。「働きもしないでpoorだというのは聞くに値しない」という文字が見えるが、それは鈴木さんのこれまでの活動を根底から否定するもののようにも思える

――完全に自分の心を封印した状態で毎月6時間の送迎を3年間……気が重くなりそうです。

鈴木 それができたのも母のためだったと思います。末期がんと宣告されて開始した治療自体は想定外に長い間よく効いていたのですが、いつか医師から「悪くなっている」と告げられる日は必ず来ます。その告知を、母と父の2人で聞かせたくはなかった。母の側にいてあげたかったんです。