――解像度が低い、とはどういうことでしょう?
鈴木 まず父に対しての解像度が低いとは、父がネット右翼的な言説を口にしたとして、それ口にする背景にどんな経験や心情があったのかを全く考えてもいなかったこと。けれどそれ以前に、僕の中ではネット右翼というものに対して、それが実際にどんな人々か明瞭な解像度をもっていないにも関わらず、非常に強い生理的嫌悪で捉えていたことです。双方が見えていない状況で、単に父が見ているコンテンツや使うスラングだけを判断指標に「父がネット右翼になった」と短絡していたことになります。
「50年も家族をやっているのに、見ていた景色が全然違う」
――確かに、親や自分のことってわかっているようでわからないことも多いですよね。
鈴木 父はどういう人物でどう生きてきたのか、僕がネット右翼的な言説を見た瞬間に憎悪に飲まれてどれほど理性を失っていたか……。そういう父や自分を見る解像度が高ければ、ヘイトスラングを聞いたときにも対応できたかもしれない。浮き彫りになってきた最大の問題は、自分の中にネット右翼に対する過剰な憎しみのバイアスがあったということでした。
――亡くなったお父さんの人格や晩年の趣味を検証し、それを本にすることについてご家族の反応はどうだったのですか?
鈴木 母と姉は、決してはじめから積極的に協力してくれたというわけではありませんでした。それでも何度も話し合って、本の原稿も確認してもらって、2人とも原稿が真っ赤になるぐらい修正を入れてもらいました。でも、同じ出来事についての認識が、僕と母と姉で全然噛み合わないことがあるんです。僕らは50年も家族をやっているのに、見ていた景色が全然違うことに驚きました。
――具体的にはどういったところが違ったのでしょう。
鈴木 たとえば父は僕の頬を平手で張ることがたびたびあったのですが、僕自身はそれをそこまでシリアスな体罰だとは感じていませんでした。母もそのことを原稿内で「暴力」という強い言葉で表現してほしくないと言う。でも姉にとってのそれは、耐え難い面前暴力の記憶として残っていました。
他にも、僕は父を「男性社会に適応した完璧な大人」だと思っていたけれど、母や姉はそれぞれ全く違う像を父に対して持っていた。彼女たちの中には僕のようにネット右翼的な言説に対しての嫌悪のバイアスがなかったし、異性ということもあるでしょう。母は当然のこととして、姉も僕よりは父という人物像を歪みなく解像度高くとらえていた。けれどそれでもやっぱり、三者三様で、見ていた景色がぜんぜん違うんですよね。