夜が明けると、中央公民館の山から下ったところに取り残された人がいるという情報が消防団からもたらされた。炎がすぐ近くまで迫っているという。
大隊では背負った水をホースから勢いよく出すジェットシューターを持参していた。「水はある」というので、警察官と消防団に隊員を同行させ、救出に向かわせた。
瓦礫がうずたかく積み重なっていただけでなく、火災まで発生したので、道などない。まだ熱い地面に水をかけながら、流れ着いた畳などをかぶせて道にした。救出した高齢者は背負い、ロープを伝って急斜面を中央公民館までよじ登る。自宅で逃げ遅れた住民は、一様に靴を津波に奪われていて、こうして助けるしかなかった。午前10時ぐらいまでに、30人ほど救助することができた。知人や家族と抱き合って涙を流す人もいた。
救出活動は思うに任せなかった。家々が破壊し尽くされた街は足場が極めて悪かったからである。
しかも、「一度収まったかのように見える火も、午後になって風向きが変わると、また勢いが強くなる」と消防団が言っていた通りになった。
中武さんは警戒を怠らないように指示していたが、それでも何人かの隊員が煙に巻かれた。帰路や自分の位置を見失い、「もうダメか」と思った時に、見覚えのあるお堂の屋根の先端が煙の間から確認できた。これを目印にして中央公民館に戻ってきたのだが、「間一髪でした。もしお堂が見えなかったら、命を失っていました」。中武さんは今でも思い出すだに肝が冷える。
救助する側も命懸けだったのだ。
見つけた丸焦げの遺体。救うこともできず、そのまま引き揚げた
現場で指揮をした中隊長は「遺体は丸焦げになっていて、救えるような状態ではなく、広島平和記念資料館の展示を思い出しました。火が迫っていたので連れ帰ることができず、『ごめんなさい』とそのままにして引き揚げざるを得ませんでした」と、中武さんに報告した。
午後からは部隊を半分に分け、大槌町でも役場から少し離れた吉里吉里(きりきり)地区へ向かった。こちらでは火事は発生しなかったが、やはり津波に破壊され尽くしていた。瓦礫の中を慎重に移動しながら捜索した。
こうして3月12日、現地入りした初日の活動は終わった。
大隊は市街地から少し山側へ入った建設会社の砂利置き場を宿営地とした。
津波被災地の夜は真っ暗だ。津波警報も再々出る。なのに瓦礫が堆積した現場からは急に逃げられない。あまりに危険なので、夜は活動せず、部隊全体で体を休めることにした。
翌日からはさらに過酷な任務が待っていたのである。
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