「地震があって2日後、(妹が帰ってこないので)『みんなで探しに行こう』と、家族で探しに行きました。幼稚園の近くに停めていた車の中で、お菓子を食べながら待っていたんです。妹が見つかったのですが、『亡くなった』という言葉と妹のことがうまくつながりませんでした。私は、そのとき、何かできたのかな?」
2011年3月11日、東日本大震災で宮城県石巻市の私立日和幼稚園(震災当時、園児103人)の園児5人が亡くなった。冒頭の言葉は、西城春音ちゃん(享年6歳)の姉、楓音さん(20)によるものだ。
春音ちゃんは津波そのものではなく、火災によって亡くなった。そのため、「火事で焦げていたため、家族だったけれども、怖かった」と話す。現在は、語り部として「あの日、何をしていたのか?」を伝えている。
震災当時、楓音さんは小学校2年生。地震があった14時46分には家にいた。津波警報が鳴っていたため、祖父母とともに2階へ行くことにした。両親は仕事中でまだ帰宅していない。
「最初は机の下に隠れました。おじいちゃんがラジオを聴いていたからだと思いますが、津波警報が出たのがわかりました。小学校では津波想定の避難訓練はしていませんでした。ただ、津波のことはよくわかっていなかったのですが、海沿いではないし、近くの小学校へ避難しようとしました。
しかし、危ないと思ったのか、おじいちゃんが私を止めて、2階に避難することになりました。結局、玄関から黒い水が入ってきて、その後、階段のところまできました。川の洪水とか、雨の汚水かと思ったのですが、おじいちゃんやおばあちゃんが『津波だ』と言っていました。そのため、その日はずっと2階にいました」(楓音さん)
運転手は、バスと園児5人、添乗員を放置して…
このとき、妹の春音ちゃんは市内の高台・日和山(61.3メートル)の中腹にある日和幼稚園にいた。
津波警報が出ていたものの、春音ちゃんたちを乗せた幼稚園バスは海岸方向に向けて出発した。途中で園児を引き取りにきた保護者もいた。そんな中、園側は津波から避難をするために「バスを上げろ」という園長からの指示を受けた幼稚園教諭2人が、日和山のそばにある門脇小学校近くで停車していたバスに伝えた。