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「人の営みがない。音も聞こえない…」防災組織を研究する36歳女性が、福島県浪江町に移り住んだわけ

「人の営みがない。音も聞こえない…」防災組織を研究する36歳女性が、福島県浪江町に移り住んだわけ

3.11から12年、あの震災の語り部たち #1

2023/03/11

genre : ライフ, 社会, 歴史

 東日本大震災・原子力災害伝承館(福島県双葉郡双葉町)の常任研究員・葛西優香さん(36)は、防災組織のあり方について研究している。自身は大阪出身だが、東京電力・福島第一原発(大熊町・双葉町)の事故で一時、強制避難となった浪江町に移住した。

 原発事故によって強制避難させられたものの、一部の住民が戻ってきた地域で、いかに防災に役立つコミュニティを作っていくのか。その答えを探ろうとしている。

防災組織のあり方について研究する葛西優香さん(23年3月1日撮影)

原発事故後も何度か取材をしていた

 福島県双葉郡浪江町は、福島第一原発から約10キロに位置する。事故前の2010年には人口が2万905人だったが、事故後、町全体が強制的に避難せざるを得ない状況になった。町役場自体も二本松市に避難をすることになった。ただ、ようやく避難指示が解除され、人々が戻りつつある。それでもまだ、町の人口は震災前の10分の1以下の1923人(2020年)ほどだ。

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 筆者が原発事故後、浪江町に入ったのは2011年3月末。4月10日に、原発から20キロ圏内の立ち入りが禁じられた後も、町に残っていた牧場主の案内で何度か取材をしていた。町内から多くの住民はいなくなり、浪江駅前の新聞販売店には、原発事故を伝える新聞が配られないままに放置されていた。

 自動販売機は動いていたものの、カフェオレは腐っていて飲めなかった。コンビニのATMが破壊されていたり、飼い主を失った乳牛が餓死していたり、その他の家畜やペットが町内を彷徨いている光景を何度も目にしていた。

原発事故を伝える新聞が配られないままだった(11年9月30日撮影)

防災組織を研究する原体験になった経験

 葛西さんは21年10月から浪江町に住み始めた。出身地は大阪府豊中市。小2のときに阪神・淡路大震災を経験した。

「先に地響きの音が聞こえて、それで起きたという感じでした。横揺れも縦揺れもありました。回っているという感じでした。住んでいたマンションは水道管が破裂し、祖母の家に避難しました。母親の話を聞いて思い出すこともありますが、近所の人に助けてもらった記憶は断片的に覚えています。

 あの年は、地震の後に熱が出たり、さらに地下鉄サリン事件もありました。どこかにサリンがあるんじゃないかとずっと思っていたんです。だから、トイレやお風呂に一人で入れないことが、半年ほど続いたと母から聞いています」

 地震やサリン事件の恐怖や不安。この経験が、防災組織を研究する原体験になった。

「地域の人たちが、災害時にも助け合えるように、他者に興味をどうやったら持つようになるのかという点が個人的な課題になっています。小学校のころの自分を振り返ると、周りの人には興味を持っていたと思いますし、ご近所さんとは挨拶をしていました。地震の後は無口になりましたが、ご近所さんには救われたと思っています」

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