隣近所と助け合えるような関係性作るために
その後、会社を立ち上げ、東京大学の博士課程で防災の研究を始める。
「災害時に助け合える街を作るというのが、自分の中での大きな目的です。何か災害があった時に、『自助』では乗り切れない。そんなとき、周りの人と社会を結びつける『共助』が必要になると思うんです。
ただ、東京ではその『社会との結びつき』がなくなっています。上京して実感しましたね。隣近所の人を知らない。だったら、隣近所のことを知った上で、助け合えるような関係性作りをしようということで、民間企業の立場から、コミュニティづくりをやっていました。
例えば、団地や駅前の再開発などでコミュニティを作ったりしました。でも、そうした場を作っても、来る人は限定されます。『多分、その場に来る人って、私たちが動かなくてもきっと来る人。社会との接点を持っている人なんだ。この場に来ない人が、どうしたら動くのか』ということを理論立てて解き明かしたいと思ったんです」
葛西さんの想定していた防災組織は、東京などの都市型を前提としていた。なぜ福島県、しかも原発事故で避難をした浪江町にフィールドを移したのだろうか。
災害時に助け合うための関係性作り
「浪江町のことを知ったのは、応援職員だった人が東京で行った講演を聞いたのがきっかけです。その方の紹介で、2017年10月、私は浪江町へ行きました。その当時、人の営みがほとんどなかったんですよ。音も聞こえない。人の会話も聞こえない。
都市型を前提とした場合、みんな他者とのつながりをあまり必要としていないのですが、浪江町の場合は、原発事故によって強制的に引き裂かれました。避難指示が解除されて、人は戻ってきますが、じゃあ、人は何から戻っていくんだろうと思ったんです。その『何から』という意味で必要なのは最低限のつながり。それだけは必要というのを見続けて、自分が理解したいと思い、浪江町に行くのを決めました」
浪江町では原発事故によって、強制避難となった。そして、震災前にあった高校はなくなり、小中学校は規模が縮小した。
「戻ってきた人は少ないですが、逆に少ないからこそ、誰が戻ってきたというのはわかっていると思います。こうした地域の防災組織は、ある程度、みんなでやんなきゃいけない。ただし、町の文化を復興させようとする人もいますし、いろんな人が、いろんなことを考えています。
そんななか、防災のリーダーを誰がやるかというのはなかなか難しい気がするんです。人が少ないからこそ、防災組織を作るという動きには至っていません。そもそも、消火器使えますとか、具体的なことも大事ですが、いかに他者に興味を持ち、その人が目の前で怪我をしたら助けたいって思えるかどうか。思いやりを持てるかどうかです。なので、今は、そのときのための関係性作りです。
つまり、お互いを知っていく。誰々さんは日ごろどういう生活をしているのか。どういう時間帯に一人になっているのか、どういうことが好きなのか、など。普段のその人のことを知っていくことを地道にやっています」