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「人の営みがない。音も聞こえない…」防災組織を研究する36歳女性が、福島県浪江町に移り住んだわけ

「人の営みがない。音も聞こえない…」防災組織を研究する36歳女性が、福島県浪江町に移り住んだわけ

3.11から12年、あの震災の語り部たち #1

2023/03/11

genre : ライフ, 社会, 歴史

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自分は被災者だと思っていなかった

 子どもと防災を考えるとき、学校としてどう対応するのかは課題になるが、阪神・淡路大震災が起きたのは早朝。そのため、葛西さんは家にいた。

「地震があった時はみんな家にいました。学校は、直後の動きとしては特に機能していませんが、その不安の中でも学校に行って友達に会ったりすると、精神的な面で支えになるとは思いました。大阪では、神戸とは違って火事が起きていません。その日のうちに学校に行った子もいるようです。学校はどうなっているのかなどの連絡は、母親が取っていたような気がします。また、学校は避難所にはならず、各自が避難先を探しました」

 阪神・淡路大震災は、当時としてはもっとも大きいM7クラス。揺れの範囲は広かった。震源地から離れた大阪・豊中市では、被災した意識があったのだろうか。

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「自分では、被災者の意識はないので、特に被災体験を語らなくてもいいと思っていました。大きな地震を身近なところで体験したというくらいです。だから、豊中は被災地だとか、自分は被災者だとか思っていませんでした。ただ、災害時にご近所の人に助けてもらいました。挨拶しておいてよかったなという原体験は、今、直結したものを自分の中で持っています」

防災組織のあり方について研究する葛西さん(23年3月1日撮影)

なぜ防災の仕事に関心を持ったのか

 また、大学生のとき、JR福知山線の脱線事故を身近に感じていた。

「私は(事故があった地点の)ふたつ先の駅で電車を待っていました。あの電車は、大学に通学する人たちがいっぱい乗っていたんです。大学は1両目から降りたらすぐに出口に行けます。そのため、先輩や友達も前の方に乗っていました。駅で待っていると、事故が起きたというアナウンスがありました。

 最初は、『いつもある事故かな?』くらいに思っていました。でも、復旧しないということになり、その日は大学に行かず、帰宅しました。身近な人が事故で下半身不随になったり、電車に乗れなくなったり……。事故によってその後の人生が変わった人が身近にいました。私自身はトラウマにはならなかったですが、いつ何が起きるかわからないと思いながら、電車に乗っています」

原発推進のPR看板(15年10月9日撮影、双葉町)

 大学での専攻は経済学だった。なぜ防災の仕事に関心を持ったのだろうか。

「正直、大学進学時はよくわからずに学部を選びました。防災に関心を持ったのは、社会人になってからです。東日本大震災のときも民間企業で働いていました。そのとき、1回目の揺れが収まった直後、周りを見渡すと、当時の上司が1人で逃げていきました。その事態を見たとき、『あんなに冷静でしっかりしていた上司だったのに、パニックになるんや!』って思いました。

 災害の恐ろしさとともに、『この上司も、もうちょっと備えていれば、対応が変わったんじゃないか』とか、『会社のルールが徹底され、災害時には課長の動きはこうです。部長の動きはこうです』などと決まっていれば、あんな行動を取らなかったのではないか、と思いました。その後、『じゃあ、一緒にみなさんで備えましょう』と思って、そこから防災を仕事にしようと思ったんです」