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 修学旅行でセンターを訪れる現代の中学生は、東京を焼き尽くした爆撃機の名前を知らないという。無理もない。その子のおじいさんおばあさんは、おそらく戦後生まれのはず。だからこそセンターでは、数少なくなった空襲体験者の語り聞かせに力を入れている。私が訪れた日は、6歳で東京大空襲を体験した藤間宏夫(85)が、3月10日の夜のことを子供たちに話していた。 

6歳で東京大空襲を体験した藤間宏夫氏(85)©石川啓次/文藝春秋

猛火の中、コンクリートとレンガで建てられた建物に飛び込む

 あの夜、藤間は、母と、その背中におぶわれた3歳の弟と3人で、日本橋・浜町を逃げまどっていた。男たちは徴兵され、東京には女性や子供、老人が目立った。

「家だけでなく、路上も火の海になっていました。私は母と弟と3人で逃げながら、足にやけどを負ってしまったんです」

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 自宅は焼け落ち、逃げまどう場面を、彼はあえておだやかに語ろうとしているのが分かった。

 付近にあった明治座は鉄筋コンクリート造の「不燃」建築だが、母子が向かうとすでに人が押し寄せていて入れない。3人は猛火のなかさまよう。すると母が、コンクリートとレンガで建てられた低層の建物を見つける――手動式シャッターがわずかに開いているではないか!

 あわてて3人が飛び込むと、すぐぴしゃりと閉められた。内部は車庫として使われていたようで、半地下になっている。

藤間氏は日本橋浜町で生まれ育ったという ©石川啓次/文藝春秋

奇跡的に助かった3人。シャッターを開けると…

「『ここが死に場所だよ』って、母は私の耳元でいいました。そして水筒に入っていた麦茶を私たち子供2人の頭にかけたんです。これが乾いたら、おしまいだからねって。死ぬときは3人一緒だからねって」 

 母子3人のほかにも、暗闇のなか10人ほどの人々が息をひそめている。周囲はすべて火。建物内の空気は次第に高温化していく。あまりの熱さに耐えられなくなり、うち2人が、皆の反対を押し切って、外へ這い出ていった――。

空襲体験者の語り聞かせをする藤間氏 ©石川啓次/文藝春秋

 蒸し焼き寸前で夜が明け、奇跡的に助かった3人。やがてシャッターを開けると、

「たった5メートルくらい先で、(出て行った)2人が亡くなっていました」

 焼け焦げた2つの遺体を前に母は何も言わなかった。