今から78年前の昭和20(1945)年3月10日未明、アメリカ軍によって東京の下町に1665トンもの焼夷弾が落とされ、10万人の命が奪われた。これが世にいう、「東京大空襲」だ。
しかし年々、東京大空襲の記憶は風化していっている気がしてならない。そこで今回は、風化を防ぎ、語り継ごうと活動を続けている施設、東京都江東区の「東京大空襲・戦災資料センター」を訪ねてみた。(全2回の2回目/1回目から続く)
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「戦災」という公共性の高いテーマを扱いながら、施設が民営である理由
私が訪れた日は、6歳で東京大空襲を体験した藤間宏夫(85)が、3月10日の夜のことを子供たちに話していた。
藤間が語っている一室の壁面を見れば、ナチスドイツによるロンドン空襲、そのドイツ・ドレスデンへのアメリカ、イギリスの空襲、そして日本軍による中国・重慶空襲についての資料などが展示されているのが分かる。東京大空襲による日本人の被害だけに限定をせず、「空襲」という戦争の手段のあり方そのものを、人類全体の問題として問おうとする強い意志。
戦災という公共性の高いテーマを扱いながら、この施設が「民営」であるのも、実はこの“意志”のためなのである。
約4000人から1億円の寄付金が集まり、開所にこぎつける
センターのルーツは、空襲体験者であり、空襲を描き続けた作家・早乙女勝元らが1970年に結成した「東京空襲を記録する会」。会はかねてから東京都に対して、空襲祈念施設の建設を要望していた。それを受け、都営の平和祈念館設立計画が立ち上がったのだが、問題が起こる。計画には、現在のセンター同様に、近隣国への加害についても展示内容に盛り込もうとしていた(会としては「東京空襲を中心とする平和博物館」を、というニュアンスだった)。
すると、一部の都議などから批判の声があがったのだった。結局、99年に計画は凍結されてしまう。
それでも会は開設をあきらめず、独自の道を行った。財団法人・政治経済研究所の協力のもと広く寄付を募ると、おおよそ4000人もの人から約1億円の寄付金が集まった。建設地を提供したのも、空襲を経験した有志の人なのだという。2002年には民間施設として開所にこぎつけ、今年で21年目を迎えている。執念といっていい。