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東京大空襲は「耐えてしのぶしかなかった」のか

 こんなとき、野坂昭如の言葉が思い出される。自身も空襲で一家離散、餓死寸前まで追い詰められた作家は、

「この空襲を日本人は天災の如く受け止めた」

 と評した(『新編「終戦日記」を読む』中央公論新社)。誰もが避けられない天変地異にあったときのように、空襲を見做す気分を言っている。「みんな耐えてしのぶしかなかった」ものなのだと。慰霊のやり方にもそれは現れていないか。東京大空襲には公営の専用慰霊施設はなく、現在までのところ関東大震災の遭難者のために建設された東京都慰霊堂で、合わせて供養されている状況である。

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 天災と戦災、それは性格の違う死だ。そこを曖昧なままに空を仰いで、そのまま多くの人は忘れてしまってこなかったか。こうした世間の気分が、現実に空襲で傷付いた人々を救わずに来たのではないか。 

東京大空襲・戦災資料センターでは、「空襲の炎」を消さないために“意志”を持った展示を行っている ©石川啓次/文藝春秋

『東京大空襲・戦災誌』に大空襲を体験したなまの声が収録されている

 ならば、もう一度思い出せばいいと思う。今からでも遅くはないはずだ。幸いなことに我々には、体験していない痛みを想像するための、そして大勢の死の検証をするための資料が残されている。前述、早乙女氏らが心血を注いで編纂し、1973~74年にかけて刊行された『東京大空襲・戦災誌』である。全5巻、関連資料などとともに、800編を超える空襲体験記が収録されているシリーズだ。

 どれも1000ページほどもあり、小さな活字がびっしり組まれたページは、一見読みにくそうに思えるが、3月10日大空襲の体験談を扱った第1巻などは、息継ぎも忘れて読まされてしまう。思い出したくない過去をあえて語った人々のなまの声が教えるもの。収蔵されている公立図書館は多い。ぜひ手にとって、考えてみていただきたい。本シリーズ、研究者たちによりデジタル化も進んでいるというから、今後より読みやすくなるというのも、私には朗報に思える。

 その第1巻からひとつだけ抜粋する。当夜、24歳の主婦だった女性の手記から。タイトルは「敦子よ涼子よ輝一よ」。生後8か月の双子の赤ちゃんと、4歳の男の子と共に空襲から逃げようとした女性は、墨田区東駒形の横川公園へ駆けこんだ。間もなくそこへも容赦なく炎は迫り、隣接する横川国民学校のプールへ大勢の人と飛び込む。水に浸かり、息子を抱き、双子を背にした母に、炎と煙が迫る。