地方国立大学の勤勉で優秀な研究者にはほとんどお金が落ちない
そして、ベンチャー企業の界隈は金余りの最たるもので、いまや医薬や航空宇宙、半導体、人工知能などなど、旬なサービスにはもれなく億単位、十億単位の投資資金がきちんと集まる体制にあります。なのに、そういうお金の流れから取り残された地方国立大学の勤勉で優秀な研究者にはほとんどお金が落ちない、落ちたとしてもせいぜい共同開発で彼らの研究キャリアにはそれほどの貢献もないということでは、何のための国立大学なのかを考えなければならないように見えます。
本当に価値を生める研究者は海外に出て勝負をするべきと言っても、今度はまた、渡航費は誰が出すのか、結婚したら奥さんは、子供は、親の介護はどうするのか、いろんな「人生」がのしかかってきます。そういう問題も全部クリアした人たちだけが科学技術を引っ張るのだという世界観もあるのかもしれませんが、それは結局親が金持ちという特異点ピープルだけが到達できる境地なんじゃないかと思うんですよ。
大学教授が助手も使わず自ら請求書を書いたり科研費の申請のために事務処理にすりつぶされ、教育と研究に時間を費やし、少ない予算でどうにか頑張っているというのは、補給なく強大なアメリカ軍と戦った太平洋戦争のあの敗戦と被ります。研究費のない研究者って、弾丸も食料もなく戦う部隊長のようなもんじゃないですか。
何をやるにも補給が命
何をやるにも補給が命だとすると、日本の学術研究は、高齢化した日本社会が引き起こした動脈硬化で血液が来ず壊死する指先のようなものです。せめて、国立大学にもっと投資資金を呼び込めるように、また研究者や教授が雑務に追い立てられて研究に没頭できないなんてことのないように、地方に然るべき教育が行き届き都市部にばかり若者が誘引されないように、資源のない日本が身を立てるために本来何をしなければならなかったのか根本に立ち返れるように、ちゃんと考えるのが大本営だと思うんですよ。
大本営が「我々はバブル景気を超える素晴らしいアベノミクスを達成している」というたび、毎年毎年研究費が回らなくて無為に過ごす研究者や、経営のプロがいなくて地方国立大学自体が存亡の危機にさらされている現状に太平洋戦争の補給の続かない前線で餓死する日本人兵士や、高齢のために自律機能が働かず自宅でクーラー入れなくて熱中症で担ぎ込まれる高齢者を思い起こすのです。
もうちょっと、どうにかならないもんですかね。