3月8日に開幕した第5回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)。侍JAPANは圧倒的な実力を見せ、1次ラウンドを無敗で1位通過した。国内外から豪華メンバーが集結した日本代表選手たちの中でも、特に期待されているのが大谷翔平選手(28)だ。
ここでは、そんな大谷選手のこれまでの軌跡を記した、エンゼルスの番記者、ジェフ・フレッチャー氏の著書『SHO-TIME 大谷翔平 メジャー120年の歴史を変えた男』(タカ大丸 訳、徳間書店)から一部を抜粋。大谷選手の“野球少年時代”を紹介する。(全4回の3回目/4回目に続く)
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奥州の野球少年
東京から北へ約400キロメートル、新幹線なら約3時間の距離に、大谷翔平が生まれ育った岩手県奥州市はある。約12万人の住む家屋が、水田と温泉の合間に広がっている。
奥州市は、1000年以上前に起きた戦いの際に建てられた胆沢城の遺産により日本の歴史 にその名を刻み、現在は畜産業で知られている。
だが、将来的には、スター選手となって海の向こうで歴史をつくり上げた男、大谷翔平の生誕地として知られることになるかもしれない。
父の大谷徹はセミプロ(社会人野球)の野球選手で、三菱重工のグループ会社で働きながらプレーしていた。母の加代子は、五輪を目指せるレベルのバドミントン選手だった。
そんなアスリート夫妻には、1994年7月5日に3人目の子となる翔平が生まれる前に、息子と娘が1人ずついた。徹は、子どもたち3人を優しく育てたという。
「特別に厳しく育ててはいないはずです。ごく普通の、本当に普通の育て方ですよ」
子どもたちの中でも翔平は、特に冒険心が強く、怖いもの知らず。遊び場でも無茶をするほうだったという。
「あの子は、どんなことでもやろうとしていました。ちゃんと見ておかなければ、何をするかわからないから危険なんです」
徹の息子2人は、自然の流れで野球をするようになった。それは決して、父親が押しつけたからではない。徹は、何がなんでも息子をプロ選手にしようと限界を超える練習をさせる、よくいる父親ではなかった。
実のところ、長男の龍太にもっと時間をとって野球を教えてやればよかったと、徹は後悔することになる。
龍太が幼かったころ、徹は工場で長時間勤務に従事していて、本来は息子のために使えるはずの時間が限られていた。そのため翔平が8歳になったとき、徹は息子のために時間を使って野球の指導をすることに決めた。
教えたことといえば、打撃と送球のコツ、そして野球という競技に対する敬意だった。