大谷が高校時代に描いた“理想の引退試合”
大谷は自分の選手生活の終わりまで視野に入れて、38歳のあたりで力の衰えが表れはじめ、引退を迫られるようになると記している。
引退試合は、40歳だ。そして、この試合で再びノーヒッターを達成するというのだ。そのあとは母国の日本へ戻り、アメリカ式ベースボールを日本に伝える役割を果たしていきたいのだという。
偉大な野球選手になるための大谷の詳細な予定表は、肉体的な成長により現実味を増していた。花巻東高校入学の際に受けたMRI検査では──これも同校入学の際に必要な手続きの1つ──大谷の成長板は16歳の時点でまだ大きく離れており、つまりはまだ今後も大きく体が成長していく可能性を示していた。
高校時代から見せていた未完の大器の片鱗
当初、大谷は投げることすらなかった。ライトの守備につき、打順は4番、つまり最強の打者が入る場所だ。
やせ型ではあったが、マウンドに上がれば90マイル(144.8キロ)の速球を投じることができた。これを見た佐々木監督は、大谷がさらに速い球を投げられることを確信した。
「まだ全然筋肉がついていないのに、あれだけ投げられたわけですよ」
こう佐々木が振り返る。
大谷の投球フォームはまだ固まっていなかったので、当時は制球に課題があった。
それから左股関節の故障があり、おそらくは成長痛の一環だろうが、そのせいで高校2年生の半年ほどはマウンドから離れることになり、投手としての成長は先延ばしになった。
それでも体の成長は確実に続いていて、完全に筋肉が発達しきっていないぶん、不自然な動きこそ残っていたが、未完の大器の片鱗は十分に見せていた。
一方で打者としては、さらなる成長が続いていた。だが、北海道日本ハムファイターズのスカウトでのちに大谷と契約することになる大渕隆は、大谷をいい選手であるとは認めていたものの、エリートに加わるほどではないと見ていた。
高校の最終学年までに、身長は190センチメートルを超えるほどにまで成長し、目に見えて大谷の骨格は逞しくなっていた。
これは、毎日、茶碗10杯近くコメを食べていたからだ。すでに大谷は栄養学やトレーニング理論に関する書籍にも目を通していて、高校時代だけで体重を20キログラムも増やしていた。
打席においての存在感は増すばかりで、そののち、同じくNPB入りする高校野球のスター、藤浪晋太郎からもホームランを放った。マウンドでの速球は最高160キロに達し、どの世代、どの国でもエリートと呼ばれる次元に達した。
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