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大谷を育てた花巻東高校の教育プログラム

 岩手県という土地柄が日本の中でも寒く、冬は雪が降るからだろうか。この地域からは、もともと野球選手が多く育つことはなかった。

 同じく岩手県出身で、日本のプロ野球からメジャー入りを果たした左腕投手、菊池雄星はこう語った。

「雪の間は走れないし、投げられないんですよ」

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 その地域の性質を大きく変えたのが、大学野球で捕手を務め、その後、奥州から車で30分ほどの花巻東高校で育成プログラムを開始した佐々木洋監督だった。

 大谷は、中学時代にこのチームの動向を注意深く追っていて、高校入学の段階になると自ら同校を選んだ。そして、単に野球の技術向上を図るばかりではなく、それ以上の大きなものを学ぶことになった。

 佐々木は単に投げる、打つだけにとどまらない、厳格な規則と哲学を持ち込んだプログラムをつくり上げていた。それは、大学卒業直後に読んだ1冊の自己啓発書がベースとなり、若者たちが野球を通じて人格形成をするためのプログラムである。

 花巻東高校に入学した野球部員は、まずスポーツを通じてどのような目標を達成したいのかを書かされる。それから、この目標を達成するために何をすることが必要なのか、具体的に書き出すことを求められる。

高校時代の大谷翔平 ©文藝春秋

大谷が書いた「未来を引き寄せる夢ノート」の中身

 大谷が書いた目標は、日本のプロ野球でドラフト1位指名を受けることだった。

 それから彼は、ドラフト1位指名に達するために自分が必要だと思う8つの要素を列挙した。 

 そこには心理面と肉体面の両方の特質が含まれていた。

 高校生活が後半に入っても、大谷は同じようにノートを書き続けた。しかし、そのころにはさらに視座が高くなっていた。

 17歳までに、彼の目標はもはや「NPB(日本野球機構)を飛ばして渡米する」と、さらに飛躍していた。その目標達成のために踏むステップは年齢別に、それぞれが非常に具体的に書かれている。

 たとえば、18歳でプロ契約を交わし、20歳までにメジャー昇格を果たすとなっている。メジャー最初の年俸は15億円を希望し、1年目から先発ローテーションに加わって、21歳で16勝を挙げることを望んでいた。

 さらに、22歳でサイ・ヤング賞獲得を目論み、24歳でノーヒッターを達成して25勝を挙げるというのだ。26歳で結婚し、ワールドシリーズ優勝だと続けて書き込んでいる。

 そして、次の世代のことまで事細かに計画を立てていて、自分が37歳のときに9歳の長男が野球を始めると書いていた。