大谷がメジャーリーグデビュー後に語った“父親の教訓”
それから何年も経ち、大谷は父親がスタンドから見守る中でメジャーリーグデビューを果たしたのちに、父親から教わったいちばんの教訓をこう語った。
「懸命にプレーすることです」
野球に日夜明け暮れた少年は、家に帰ればひたすらテレビの野球中継をかじりついて見ていた。特に、読売ジャイアンツの試合を欠かさず見ていたという。
「テレビの中の野球選手は、本当に格好よく見えましたね。また野球が存分にできる週末がくるのがいつも楽しみでした」
好みのバッターはジャイアンツの強打者、松井秀喜だった。また大谷は、日本最高の投手、ダルビッシュ有のファンにもなった。
松井もダルビッシュもありあまる才能を活かすべく日本プロ野球からMLBへ、つまり後年に大谷が追った道を切り拓いたといえるだろう。同じく大谷が憧れた打者がイチロー(鈴木一朗)で、大谷が7歳になったころにはすでに日本を離れ、メジャーの選手となっていた。
ライトフェンス越えのホームランを打ちすぎる“少年時代の悩み”
大谷は、右投げ左打ちとして育った。
後年、このおかげで投げる際と打つ際に筋肉へかかる負荷を分散させることができるという効果が表れた。
また、左打ちということでホームランはすべてライト方向に飛んでいったのだが、この点が胆沢川沿いの草野球場でプレーしていて大きな問題となった。
大谷があまりにも多くのライトフェンス越えのホームランを打つので、チームの大切なボールが川に打ち込まれ、費用面で悩みのタネとなった。
そんな事情と父親からの助言もあって、大谷は反対側のレフト側に大飛球を打つ技術を身につけ、それが後年、大きく役立つことになる。
高校に入学するまで、大谷は地元でのみプレーしていた。
日米両方によくいる幼少期から頭角を現していた選手たちと違い、大谷は幼いころに遠征に行くことはなかった。自分がそんなにうまい選手だという自覚がなかったのだ。
「僕よりもっとうまい選手が、いくらでもいるのだと思っていました」
のちになって、大谷本人はそう振り返った。