長年にわたり、メジャーリーグ球団は日本人のアマチュア選手には手を出さないという暗黙の紳士協定のようなものがあった。
それが崩れ始めたきっかけが、2008年にレッドソックスが、当時、新日本石油ENEOSに所属していた田澤純一投手の獲得に乗り出したことだった。
佐々木は話だけは聞く姿勢を見せていたが、もし菊池がメジャーへ直行したら日本プロ野球界との関係を壊してしまうことを危惧していたと、あとになって認めた。最終的に菊池は残留を決めて、日本でプロ生活を始めることになった。
18歳の時にはNPBをとばしてメジャーリーグ入りを希望
菊池のプロ入りが騒がれていたころ、大谷はまだ中学生だった。花巻東高校に入学して菊池がつけていた背番号17を引き継ぐことになり、のちにロサンゼルス・エンゼルスに移籍した大谷は、再びこの番号をつけることになった。
太平洋の両岸から熱視線を集めたという点で、大谷は菊池の軌跡を追うこととなったが、佐々木は再び綿密な助言を行った。
ただ、今回の佐々木の答えは違っていた。大谷に、直接アメリカを目指すことを勧めたのだ。
2012年10月、18歳の大谷は記者会見を開き、NPBをとばしてアメリカでプロ生活を始めたい意向を明らかにした。大谷はこう切り出した。
「あらゆる国の偉大な選手たちが集まっている場所ですから。僕は、そんな選手たちに負けたくないんです」
まだどこのメジャーリーグ球団とも契約を交わしていない段階だったが、この告知により日本球団のドラフト指名を回避したいという狙いがあった。
大谷獲得に燃える日本ハムファイターズの執念
だが、日本ハムファイターズは、それで引き下がることはなかった。
ファイターズは球界の通念に従わず、当時、ほかのどのNPB球団も採用していなかった最新の数値計量を用いてもろもろの決断を下すことで知られていた。
この1年前にファイターズは、偉大な伯父・原辰徳監督が率いる読売ジャイアンツ以外の球団には絶対に行かないと断言していた菅野智之投手を1巡目で、強行指名していた。