佐々木信也と栗山英樹、運命の出会い
「侍ジャパン、すごくいい戦いをしていますよね……」
受話器の向こうから聞こえる声の主は、かつて地上波版『プロ野球ニュース』のMCとして、まさに「お茶の間の顔」だった佐々木信也氏だ。89歳となった現在も、昔と変わらぬ美声は健在だ。
「……栗山が監督だからダルビッシュも大谷も参加しているんだと思うし、詳しいことは中に入ってみないとわからないけど、日本ハム監督時代を考えてみても、彼には監督としての才能もあって、チームもうまく回っているんじゃないですかね」
WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)における侍ジャパンの激闘を見ていて、ふと佐々木さんのことを思い出した。取材を通じて面識を得てから、コロナ禍以前は定期的にお会いして昔の思い出話、最近のプロ野球についてとりとめのない話を続けてきた。その際に、侍ジャパン・栗山英樹監督の話題が出たことがあった。佐々木さんは言った。
「栗山がプロ入りする際に、少しばかりお手伝いをしたんですよ」
詳しく聞いてみると、東京学芸大学時代の栗山のプレーをたまたま見た佐々木さんがきっかけとなって、1983年ドラフト外でのヤクルトスワローズ入団が決まったのだという。栗山が現役時代に出版した『栗山英樹29歳 夢を追いかけて』(池田書店)にも、その顛末が描かれている。大学4年に進級する春休み、静岡で行われたキャンプにおいて玉川大学と練習試合を行った日の出来事だった。
〈試合当日、玉川大学が待っていた掛川のグラウンドに出かけて行って驚きました。ユニフォーム姿の部員や監督に混じって、私服姿で僕たちの到着を待っていた人がいる。何とテレビのプロ野球ニュースでおなじみの解説者、佐々木信也さんだったのです。〉
佐々木さんがこの場にいたのは、当時、玉川大学に長男が在籍していた関係で、空き時間を使って息子の応援に出かけていたためだった。そして、これが栗山の人生を大きく変えることになる。公式戦でもない単なる練習試合が、運命の扉を開けることになったのだ。
リップサービスを真に受けた栗山監督
佐々木さんが続ける。
「今となっては、試合内容はまったく覚えていませんけど、この日、栗山は3本ヒットを打ったんです。それはなかなかいい打ち方でした。プロレベルだとは思わなかったけれど、この日の選手の中では一人だけ目立っていました」
試合後、「ぜひ、講評、そして選手たちにアドバイスを」と求められた佐々木さんは両チームの選手を前に言った。
「今日、3本ヒットを打った選手がいたよね。君はなかなかセンスがあると思うよ」
佐々木さんが講評するこの場面、もちろん栗山の前掲書にも登場する。そこには次のように書かれている。
〈厚かましい申し出に、佐々木さんは快く応じてくれ、いろいろ貴重なアドバイスをしてくれました。そして、最後に、僕を指さしてこういってくれたのです。
「キミならプロ野球でやっても面白いかもしれないネ」
その時の僕の気持ちを何といえばいいのでしょう。プロ野球の一流の選手をずっと見続けている人に、やれるかもしれないといわれたのだから、それこそ天にも昇るような嬉しさでした。〉
今からちょうど40年前の春の日の出来事を、改めて佐々木さんに尋ねてみる。
「あぁ、よく覚えていますよ。彼はいい打ち方をしていましたから。でも、正直言えば半分本気、もう半分はリップサービス(笑)。それでも、彼がすごく喜んでいたことは覚えていますよ」
1989年に発売された『ベースボールアルバムNO.98 栗山英樹』(ベースボール・マガジン社)には、当時の佐々木さんのコメントが紹介されている。
〈「光ってましたね。当時は右だけで打ってまして、柔軟性があり次への対応も早かった。それでまあ、冗談半分、本気半分で“三番打ってたキミ、プロでやってみたらどう?”といったわけです。そのとき彼はけげんそうな顔してたなぁ。翌日になって、お父さんから、“本気にしてもいいんでしょうか”と電話が入りましてね。再度、彼の才能をアピールしたんです」〉
話はこれで終わるはずだった。しかし、「卒業後は教師になる」と決意しつつ、「それでも野球は諦めたくない」と考えていた栗山にとって、佐々木さんの言葉はある種の「福音」でもあった。キャンプ終了後もこの言葉が忘れられず、栗山は佐々木さんの下を訪れ、進路の相談をするのだ。
「最初は、“しまった!”って思いましたよ。半分冗談、半分本気で言ったことをまともにとられたのでね(笑)。そしてこのときに、“プロに入りたいのなら、在京球団のスカウト部長に春のリーグ戦のスケジュールを送って、試合を見に来てもらいなさい”と伝えたんだよね。そこからすべては始まったんです」