山野楽器の音楽教室で役目を終えた100台のピアノを全国に贈る『100台のピアノ物語』プロジェクト。ピアノを受け取った11名を取材し、短編小説のように綴ったノンフィクション『ピアノストーリーズ』(ぴあ)より1話を抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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熊本県集中豪雨で廃棄された大切なグランドピアノ
その雨は夜から翌朝にかけて猛烈に降った。
だれも経験したことのない豪雨だった。
熊本県人吉市の全域に大雨特別警報が発令されたのは7月4日午前4時50分。
ほどなく市を東西に貫く球磨川が観測史上最高の水位に達し、午前5時15分には全市民に避難指示が出されたものの、やがて氾濫。街は濁流に飲みこまれた。
令和2年7月豪雨――。
2020年夏のこの記録的な大雨が残した爪痕はあまりにも大きかった。
市の中心部などが広範囲にわたり浸水し、2300棟を越える家屋が半壊もしくは全壊し、死者は21人に及んだ。
「たった1日の雨ですべてを失うことになりました」
球磨川のほど近くに位置する寺院、高野寺の住職を務める味岡戒孝は言う。
あふれた水は寺まで押しよせ、浸水は4.3メートルの高さに至り、本堂や、家族が4人で暮らす庫裏や、集会所が水没した。
仏具、家財、思い出の品々はほとんど流されてしまった。
集会所では妻の眞理子がピアノ教室を開いており、そこには2台のグランドピアノが置かれていた。それだけでなく本堂と庫裏にもそれぞれアップライトピアノがあったのだが、本堂のピアノは流出し、他のピアノは水中に埋もれた。
ピアノ教室で使っていたグランドピアノのうち、1台は彼女が中学1年生のときから弾きつづけてきたピアノだった。
けれども泥まみれになり、横倒しになったピアノは、廃棄するよりほかになかった。
「脚は折れ、鍵盤もハンマーもばらばらになり、屋根は割れていました。ピアノが再生できないことはわかっていました。もちろん妻も理解していました。しかし受け入れることができませんでした」