山野楽器の音楽教室で役目を終えた100台のピアノを全国に贈る『100台のピアノ物語』プロジェクト。ピアノを受け取った11名を取材し、短編小説のように綴ったノンフィクション『ピアノストーリーズ』(ぴあ)より1話を抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)
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「命があればあとはどうにかなる」
雨は球磨川を氾濫させ、建物や橋を破壊した。
山津波と形容される大水が高野寺に押しよせてきたとき、なにを差しおいても優先したのは命を守ることだった。
1965年にも球磨川周辺では大水害が起き、甚大な被害がもたらされたため、その後は堤防をかさ上げし、堤防を引いて川幅を広くするなどの治水対策が取られてきた。だから大丈夫だという油断が、もしかしたらあったのかもしれない。
寺の近くには逃げるのが遅れ、犠牲になった人たちが何人かいる。親しくしていた夫妻も亡くなってしまった。
けれども、戒孝と眞理子がふたりの子どもたちとともにまず逃げることを優先できたのは、他の災害現場での経験があったからだ。
僧侶の本分は人びとに寄り添うこと。その考えから戒孝は全国の被災地を回るようになり、2017年の九州豪雨の際には福岡、2018年の西日本豪雨では広島に出向くなどして、ボランティア活動をつづけてきた。大きなきっかけになったのは2016年の熊本地震で、このときは被災した妻の実家に家族全員で駆けつけた。
「命があれば、あとはどうにかなる。被災地に行って学んだことです」
戒孝と眞理子は互いにうなずきあう。
その結果、幸いにして家族には怪我人がなかった。
2日目から支援物資が届き始めた
発災から2日目には、交流のあるボランティア団体などから支援物資が届きはじめた。その食料や衣類や衛生品などを、戒孝は軽トラックに積み、球磨川のさらに下流域の、支援がまだ届かない球磨村などに運んだ。人吉市と球磨村のあいだを、多いときは1日に3往復した。自分たちもきついけど、それ以上にきつい人たちがいる。とにかくその一心だった。
被災したことをどこからか知り、すぐに高野寺に駆けつけてきたのが、眞理子が熊本市でピアノ教室を開いていたころの生徒たちだ。
教えていたのはだいぶ前のことだったので、彼女たちは見違えるように成長し、なかには母親になったという者もいた。
「その子たちが汚泥のなかを歩いて、泣きながら会いに来てくれたんです。先生が生きててよかったって」
眞理子の安否を憂慮していた生徒たちは、その無事を確認し、涙を流して喜んだ。
そして彼女にあらためて感謝の意を述べた。努力すればその分だけ力になることを、自分たちはピアノ教室で学んだのだと。