あれから2年を経ても庫裏の再建は進まない。いまなお仮設住宅での暮らしはつづく。寺までは約10キロの距離を車で通わなければならない。
「実は東京から日帰り圏内です。球磨川は穴場かもしれません」
けれども支えてくれる人たちがいるから、乗り越えることができる。支えてくれる音楽があったから、潜りぬけることができた。
季節は大地を巡っていく。
水没した境内の梅は被災後もいつもどおり芽吹き、花開いた。少し遅れて、桜も。
そして紫陽花や向日葵が庭先に咲き、目をやれば、門前の蓮池には紅白の花が浮かぶ。
九州山地の深い山々に囲まれた、人吉球磨と呼ばれるこの一帯には焼酎所が多い。盆地に特有の寒暖差の激しい気候は、この地を豊かな米どころとし、米を主原料とした球磨焼酎を生みだした。
「私は下戸なんです。でも球磨焼酎は不思議と酔いません。それからいい温泉が多いですね、人吉球磨には。おいしいうなぎ屋さんもあります。とても有名で、東京から日帰りで来る方がいるくらいです。鹿児島空港からのアクセスがよく、50分ほどで来られるので、十分に日帰り圏内ですから。実は穴場だと思いますよ」
戒孝と眞理子は人吉球磨の魅力を次々と挙げる。
鮎釣りが解禁されるのは毎年6月からだ。この地域では体長が一尺(約30センチ)を超える尺鮎がときおり取れるため、シーズンになると全国の釣り好きがそれを目当てに訪ねてくる。またゴムボートに乗り急流を下るラフティングはこのあたりの観光の目玉だ。
それらはすべて球磨川の恩恵を受けて振興した。「だから被災後も球磨川を悪く言う人はだれもいません」と戒孝は語る。
「もともと球磨川は暴れ川というんです。それは戒めでもあるんでしょう、人間は自然の怖さを忘れたらいけないって。そのうえでどれだけ自然と寄り添えるのか、私たちは問われているんだと思います。球磨川は恵みを運んでくださる川です。水がいいから米がいい、温泉もいい。おいしいものもある。とても大切な川ですね。人吉球磨は球磨川があってこそなんです。だから私も球磨川を悪いとは思いません。なんなんでしょうね、あんなに暴れた川なのに」
与謝野晶子ら文人たちに愛された土地で奏でられる音色
球磨川は古くからここを訪れた多くの文人たちを魅了した。そのひとりである歌人の与謝野晶子は、昭和初期に夫の鉄幹と人吉市を訪ね、川下りを楽しみ、歌を詠んだ。
大ぞらの山の際より初まると同じ幅ある球磨の川かな
見あげる空と同じ広大さで、晶子の目の前を悠然と流れた球磨川は、あの日いきなり猛威を振るった。「それでも」と戒孝は思う。
「やはりここが自分たちの居場所なんですよね。これからもずっとここに生きていく覚悟です、もちろん」
球磨川がもっとも絵になるのは夕暮れどきだという。
夕陽が川面に深く差し、隅々まで陰影を濃くするこの時間の風景は、光の絵筆をふるったような美しさを一面にたたえる。
日暮れが近づくと、ヘルメットを被った、制服姿や体操着姿の子どもたちが、自転車で大橋を渡り家路へ急ぐ。
「じゃあね」「また明日」
人吉球磨の人たちの生活はこの川とともにある。それは明日も変わらない。
川波に光をはねながら、球磨川は静かに流れている。
高野寺からはピアノの弾む音色が聴こえてくる。