被災して初めて実感した音楽のちから
人吉市の気候は寒暖差が大きく、湿気が多いので、馴染むのには時間がかかったが、ピアノは高野寺で新たな日々を生きはじめた。教室のかたわらには目を輝かして練習する生徒たちがいる。そして中一のころから弾きつづけてきたピアノは、運よく廃棄されなかった屋根の部分を生かして、テーブルとなりそこに置かれている。愛用のピアノはいまも一緒だ。
彼女は音楽の力について考える。なぜピアノを習ってきたのか。なぜ音楽大学に進学したのか。これまでの自分をたどり直すうち、ふと思いあたった。
大学を卒業したあと、老人ホームに毎年通い、友人と慰問演奏をしていた時期がある。その施設の入居者のなかに、普段は口数の少ない、いつも怒っているおばあさんがいた。
ところが唱歌などの昔懐かしい曲を演奏すると、そのおばあさんは表情を変え、楽しそうな顔つきで歌った。施設の他の人たちも演奏を聴いているあいだ、ずっと幸せそうな様子だった。
それから年月を経て、水害に遭い、当時とは反対の立場になった。現在では自分たちのもとを、多くの人たちが演奏のために訪れる。その演奏を聴くときの気持ちは、あのときのおばあさんと同じなのかもしれない。彼女は実感する。音楽は心の奥に伝わり、人を癒すのだと。
コロナ禍のピアノ教室では、大勢の生徒たちが一堂に集まる発表会を開くことが難しかった。だからその家族だけが教室に来て、生徒の演奏を聴く時間を設けたところ、とくに生徒のおじいちゃんやおばあちゃんたちが感極まる様子を見せた。
「孫がこんなに弾けるのかという驚きもあるでしょうし、こんなに成長したのかという喜びもあるでしょう。みなさん涙を流しながら聴かれます。そしてニコニコして出ていかれます。それを見るのが私たちも楽しみです」
被災するまでは、音楽の力をあまり感じとれなかった。けれどもいまは、人びとを心から元気にする音楽がかけがえのないものだと、戒孝にはわかる。
こんなときだからこそ、音楽は必要なのだ。