それらの言葉にどれだけ励まされたかわからないと、眞理子はいまも涙ぐむ。まぶたの裏に浮かぶのは、地方予選から本選、全国大会へとコンクールに向けて懸命にがんばる生徒たちの姿だ。生徒たちががんばるから自分もがんばることができた。彼女は思う。
福岡からは、戒孝のサラリーマン時代の同僚たちがやってきた。それに加えて学生時代の先輩や後輩たち、博多祇園山笠などで交流した祭り仲間たちもやってきて、猛暑のなか泥かき作業を手伝った。
すべてを失ったと思ったが、決してそうではない。いまわかった。支えてくれる人たちがこんなにもたくさんいたのだ。
そして“ある声”が日に日に大きくなっていった
災害から少しすると、被災した生徒たちからピアノ教室の再開を求める声を聞くようになった。
そしてその声は日ましに大きくなっていった。
「7月4日に被災して、子どもたちがピアノを弾きたいと言いだしたのは2ヵ月後からなんです。立てつづけに言ってきましたね、ピアノを弾きたいって。本当に不思議でした」戒孝が回想する。
だが正直なところ、まだ再開できる状況ではなかった。
境内の建物はいずれも全壊した。2階の天井まで泥水に浸かった庫裏や、植え込みの桜が倒れてきて、屋舎がゆがんだ集会所は、いまだ解体作業に入ることすらできていない。
被災した直後の集会所をのぞくと、水浸しになった楽譜が天井に張りついていた。ピアノもそうだが、譜面など音楽に関連する図書もすべて失われた。
心の余裕がなかったとしても仕方ない。心に空いた穴はそれだけ大きかったのだ。
けれども、こう思った。被災したのは自分たちだけではない。子どもたちが音楽を求めるなら、その気持ちをできるだけ尊重しよう。
そこで境内に簡易のプレハブ小屋を設置し、グランドピアノはレンタルで間にあわせ、教室の再開に踏みきった。それが9月のことだ。
そして眞理子はほうぼうから楽譜をかき集め、被災して楽譜をなくした生徒たちや、同じように困っている他のピアノ教室に配ってまわった。戒孝は音楽に対する彼女の真摯な気持ちに、あらためて胸を打たれた。
こうして生徒たちが再び彼女のもとに集まってきた。ピアノ教室には優しく、可憐な音色がまた響くようになった。
いよいよ寺院の建物を再建する段になり、戒孝がまっさきに手をつけたのは本堂である。彼が考えるに、それは家族の住居となる庫裏よりも先に建てなおさなければならなかった。「お堂は地域の拠りどころだからです」
再建を目指す彼のもとに、ある日、多額の支援金が送られてきた。見ると、先代住職と縁のある寺院からで、「先代の思いが込められた本堂をしっかり直しなさい」というメッセージが添えられていた。さまざまな人たちが寺の再興を後押しした。