「まさか私がお坊さんになるとは思わなかったでしょうし、彼女はいつの間にか巻きこまれてしまった。本当に苦労をかけました」
寺を継いだものの、檀家がいなかったため、葬儀や法要などの依頼はなにひとつなかった。生活していくためにはサラリーマン時代の蓄えを取りくずすしかなかったが、それもすぐに底をついてしまった。
住職としての日々は想像をはるかに超えて多難だった。
自暴自棄になり、みずから命を絶つことすら考えもした。すると、そのたびに警察官だった父の言葉が頭に浮かんだ。血が飛び散ったら誰が掃除するのか。山や海に消えたら誰が探すのか。そんな迷惑なことは絶対にするなと。
あるとき、彼は本堂を見た。祖父である先代住職が建てたお堂は、上から見ると八角形をした八角堂で、柱もすべて八角形でできている。釘はひとつも使われていない。
それほどまで心を砕いて造られたお堂が、彼がなにひとつ努力しなくても、寺にはすでにある。住まいとなる庫裏もある。それ以上にいったいなにを望むというのだ?
そう思うと、気が少し楽になった。そして先代住職が周辺を巡り、托鉢をして、人びとから応援される寺を築いたのと同じように、彼もまた地域の人びとに親しまれ、お参りに足を向けてもらえるような寺を築こうと考えた。
だが豪雨がすべてを変えてしまった…
「ここは祈祷寺なんです。護摩祈祷を通して、みなさんの願いごとをかなえる。神仏のお陰さまに感謝し、みなさんが笑顔にあふれ、豊かな人生を送れるようにお祈りする。それがこの寺の本質ですね」
高野寺は人びとに寄り添う寺なのだと彼は話す。
妻は結婚と同時にピアノ教室の拠点を熊本市の実家から人吉市に移してきた。
愛用のグランドピアノはそのまま実家に残してきたが、2016年4月に起きた熊本地震で被災し、両親が避難生活を強いられるなか、ピアノを人吉に移してはどうかという提案があった。
そこでピアノを境内の集会所に搬入し、妻はそれを結婚後に購入したグランドピアノの横に並べ、二台のピアノで子どもたちを指導するようになった。グランドピアノを二台並べて生徒たちに教えること。それは彼女の以前からの夢だったのだ。
寺の正面には「まりこピアノ教室」の看板を掲げた。生徒は着実に増え、三十人ほどの小中学生を教えるまでになった。
夫婦ともに二人三脚で歩いてきて、ようやく道筋ができた。
そう思った矢先の豪雨だった。(後編へ続く)