彼女が指導をする際に心がけていたこと
大学を卒業したあとは、楽器店に勤務し、音楽教室のピアノ講師として子どもたちに教えた。それが5年近くつづくなかで、彼女のうちに願望がふくらんでいった。ひとりひとりの生徒ともっとしっかり向き合いたい。それぞれに合わせたレッスンをしたい。
彼女は熊本市内の実家で自身のピアノ教室を始めた。
「看板もなにも出さずに始めた教室でしたが、幸いなことに子どもたちに恵まれ、楽しくやってきました」
指導する際に心がけてきたのは、生徒たちの話をたくさん聞いてあげることだ。
「子どもたちは、興味を持つタイミングも違えば、伸びるタイミングも違うんです。だから焦らずに、長いスパンで考えて教室に通ってくださいと、ご家庭にはお話しています。早く音感が身につけばいい、早く曲を弾きこなせればいいということではたぶんないと思うんです」
だいいちに楽しいというイメージを持ってもらうことが大事だ、と彼女は言う。そのイメージが根づけば、きっと、生涯にわたってピアノを弾きつづけられるはずだと。
そんなふうに教室で手とり足とりして教えてきたピアノが、中1で購入したグランドピアノだった。
「妻とよく話すんです、ピアノとお寺のお経は変わらないねって。お経も心に響く。聴く人の心を落ち着かせる効果がある。それはピアノと一緒です」
夫の戒孝は口を開く。
彼は大学を卒業したあとの5年間、福岡でサラリーマン生活を送っていた。
高野寺は彼の母方の祖父、味岡良戒が1926年に建てた寺である。
サラリーマン生活を送り続けるはずだったが……
良戒は寺を建立したあと、宗派の大本山である大覚寺に奉公に出て、その最高位である管長にまでなった人物だ。その一方で、良戒が戦後すぐに大覚寺に向かって以降、高野寺は住職不在の状態が長くつづき荒れた。
「かたちとしては祖母が後を継ぎましたが、住職がいないので檀家さんもいない、そういう寺だったんです」と彼は言う。
「その後、祖母が高齢になり、子どもたちがみんな女性だったので、じゃあ孫にといって私が後を継ぐことになりました。父は警察官でしたが、ちょうど末期のがんが発覚して、これは福岡から帰ってこいという意味なのだろうなと。それから1年間修行して、住職になったのは30歳のときです」
それとほぼときを同じくして、以前から交際していた眞理子と結婚した。