本当に残酷な光景だったと彼は振りかえる。
水を含んだグランドピアノは信じられないほど重い。十人以上の大人でも持ちあげることができなかったため、重機で運びだした。
そして寺の正面の道路横にうず高く積みあげられた災害ごみと一緒に廃棄した。
ピアノが廃棄物として運ばれていく様子を見ていた妻は、泣き叫びそうになる声を彼の肩で押し殺し、必死に耐えていた。それでも涙はあふれ、体はがくがくと震え、いまにも腰から崩れ落ちてしまいそうだった。
「自分の体の一部がもぎとられるような心境だった」
彼は彼女の体を支えながら、「辛いだろうけど最後までしっかり見届けよう」と言った。気丈に振る舞おうとしたが、彼も涙をこらえることはできなかった。
憤り、悔しさ、不甲斐なさ、もどかしさ……いくつもの感情が湧いてきて、心のうちで渦を巻いた。
気がつくと、片付けの応援に来ていたピアノ教室の同僚に抱きかかえられ、妻は嗚咽していた。むせび泣くその後ろ姿を彼は忘れることができない。
のちになり、「自分の体の一部がもぎ取られるような心境だった」と妻は彼に話をした。
それだけたくさんの思いが詰まったピアノだったのだ。
彼女がピアノを習いはじめたのは幼稚園の年中のころだ。
幼稚園にはピアノ講師が来て、子どもたちにピアノを教えていた。それを見て、自分も習いたいと思ったのがきっかけだった。
父が音楽好きだったので、家にはつねにクラシック音楽が流れていた。小学生のころ、父に連れられてレコード店に行き、初めてレコードを買ってもらった日のことを覚えている。本当はそのころ流行っていたアイドルのレコードが欲しかったのだが、父が買ってくれたのはクラシックのピアノ名曲集だった。
彼女はピアノを弾くのがすぐ好きになった。
中学1年生になったとき、そろそろグランドピアノを用意したほうがいいのではと、手ほどきを受けていた先生に勧められた。それまで練習で弾いていたのはアップライトピアノだったので、父と楽器店に行き、数あるなかから黒のグランドピアノを選び、それを購入した。
自分のグランドピアノを手に入れてからは、熱心に練習し、地元のコンクールにも参加した。
そして高校生になり、卒業後の進路を考え、熊本の音楽大学に進んだ。ピアノを弾くのが好きだったし、なにより子どもが好きだったので、保育士になる未来を見据えていたのだ。