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「これから覚悟しておいた方がいいよ」

 球団事務所には苦情の電話やメールが来るようになった。名指しのものもあった。自分の生活圏からファイターズを奪われることを怖れる人たち、今あるものを守ろうとする人たちの怒りだった。そして一部の先鋭化した怨嗟がついに前沢の自宅にまで届くようになったのだ。

 この街の人々にとって、自分はどんな男に見えているだろうか……。前沢は想像してみた。自分たちはファイターズという球団で働いてはいるが、ユニホームを着て日々グラウンドに立っているわけではない。テレビ画面に映り、顔も声もキャラクターも多くの人に知られた新庄剛志や稲葉篤紀とは違う。

日本ハム監督の新庄剛志 ©文藝春秋

 前沢はファンの人々にとって顔の見えない背広組だった。金のために、恩義ある札幌に背を向けようとしている冷徹なビジネスマンと捉えられていてもおかしくはなかった。

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 球団に届く市民の怒りの声も、「死ね」というメッセージも、裏を返せばファイターズへの愛着であった。ただ、そうとは分かっていても、手紙を目にした前沢の背筋には冷たいものが残った。まだプロジェクトチームを発足させたばかりの頃、ある人物にこう言われたことがあったからだ。

「これから覚悟しておいた方がいいよ。これだけ大きな規模の開発事業になると、1人か2人は死ぬ。それが、どこの誰になるかは分からないけど……開発ってそういうものだから」

ボールパークの実現に向けた前沢の覚悟

 札幌ドームは17年前に500億円以上もの費用をかけて建設された。市役所や経済界、議会などに、いまだ多くの利害関係者がいるだろう。前沢に対して、あいつさえいなければと恨みを抱いている人間はごまんといるはずだった。交差点で信号待ちをする時に、駅のホームで電車を待つ時に、自分の背中に気配を感じて後退りするようになったのはそれからだった。

 ただ一方で、前沢は批難を受ける中、ひとつ腹に決めたことがあった。立ち止まらないことだ。どれだけ抗議を受けても、ボールパークの実現に向けて協議を続け、要求を続け、建設地を探し続けること。それが前沢の覚悟だった。

 2015年にファイターズに戻ってきた時、前沢が最初にやったことがある。それは粘土の球場をつくることだった。小学校の図工で使うような油粘土を買ってきた。そうした趣味を持っていたわけではないが、前沢にとってはやっておかなければならないことだった。どんな形にも変化する粘土で、まずスタジアムの輪郭をつくってみた。シンボルとなる開閉式の屋根やフィールドを一望できる広々としたコンコース、グラウンドと近く臨場感のあるスタンド……。頭の中に描いていたことを形にしてみた。

 それができると次に紙粘土を買ってきた。油粘土とは違って成形すると数時間で固まってしまう。それでも迷いなく細部まで造形することができた。書斎の机の上に小さな粘土のスタジアムが完成したとき、前沢はこの事業を成し遂げられると確信した。