「僕はやりません。こんなのは野球の取材じゃない」――1990年、巨人軍のエース桑田真澄を巡るスキャンダルをめぐり、上司に反抗した26歳・スポーツ新聞記者。

 入社3年目の記者による命令拒否は重く受け止められ、巨人軍取材班から外されることに。シーズン開幕を前にして、休職状態になってしまった彼を救った「ある野球映画」とはいったい? ノンフィクション作家の鈴木忠平氏による待望の新刊『アンビシャス 北海道にボールパークを創った男たち』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

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突然の戦力外通告

 1990年の春、東京の桜は例年より少し早く開花した。3月も終わりのその朝、吉村浩は世田谷区北沢のアパートで目覚めた。小さな木造2階建てに四部屋がひしめき、洗濯機は外置き。車が通れば両端をこすってしまいそうなほど細い路地のどん詰まりにあるこの物件を選んだのは7万3000円という都心では安価な家賃だけが理由ではない。京王線の笹塚駅まで徒歩5分という立地からだった。乗り換えなしの一本で川崎のジャイアンツ球場まで行ける。26歳、まだ駆け出しのスポーツ新聞記者からすれば、それは何にも勝る条件だった。

 吉村は巨人軍の担当記者だった。3人いる担当の中で最もキャリアの浅い吉村の日課は日の出とともに起きて、ジャイアンツ球場に向かい、そこで二軍選手たちを取材して、陽が傾き始めた頃に一軍のナイトゲームが行われる東京ドームへ急行するというめまぐるしいものだった。とくに開幕が近づくこの時期は例年休みなしの繁忙期だった。

 だが、この日はいつものように慌ててアパートを飛び出す必要はなかった。シャツもネクタイも、カバンすらいらなかった。吉村はゆっくりと身支度をして、ほとんど何も持たずに独り住まいを出た。小さなアパートを振り返ると、屋根には衛星放送のアンテナが立っていた。それもここに住んでいる理由の一つだった。

 路地を抜けて笹塚観音通り商店街に出ると、アスファルトに柔らかい光が差していた。陽気につられたのだろうか、いつもより人通りが多い気がした。プロ野球のシーズン開幕まで1週間ほどに迫ったこの時期にのんびりと商店街を歩くことなど、これまでなら考えられないことだった。解放感はあった。だが同時に虚脱感もあった。吉村はこの日、予期しない休日を手にしていた。

「おまえは取材から外れろ――」

 上司からそう言われたのは数日前のことだった。

 発端は巨人軍のエース桑田真澄を巡るスキャンダルだった。まだ各球団のキャンプが始まったばかりの2月に1冊の書籍が刊行された。あるスポーツメーカーの巨人軍担当者による告発本であった。そこには桑田がメーカーのグラブを使用することを条件に、数年にわたって金銭や接待を要求してきたこと、常習賭博で逮捕歴のある会社社長から金品を受け取り、チームの機密である登板日を漏洩していたことなどが書かれていた。

桑田真澄氏 ©文藝春秋

 これを受けて巨人軍は3月に入ってから記者会見を開いた。桑田はその席上で、金品授受と登板日漏洩のいずれも否定した。ところが、出版側はその後、書籍には記されていない新たな証言を公開し、巨人軍の調査と桑田の言い分に反論した。大手新聞社も第三者機関が桑田の調査を行わなかったことへの疑問を報じ、開幕間近の巨人軍と桑田の周辺は疑惑に揺れていた。