吉村は当時、数いる巨人軍の選手の中でも桑田の担当をしていた。そのためデスクや年長者からはこの問題の取材と本人の徹底マークを命じられた。新聞記者である以上、当然のことだった。
だが、吉村はこれを拒否した。
「僕はやりません。こんなのは野球の取材じゃない」
吉村は野球記者がグラウンド外のスキャンダル取材に振り回されることに納得がいかなかった。野球を書くために記者になったのだ、という思いがあった吉村にとっての野球とはグラウンドの上で、スタジアムの中で起こることだった。
年号が昭和から平成に変わったばかりとはいえ、当時の新聞社内にはまだ年功序列、上位下達の掟が色濃くあった。そんな中で入社3年目の記者による命令拒否は重く受け止められ、巨人軍取材班から外されることになった。シーズン開幕を前にして吉村は事実上の休職状態にあったのだ。
グラウンドに行くのをやめた日
笹塚駅に着くと、いつもと反対側のホームに立った。京王線に乗り入れている都営新宿線を待つ。通勤ラッシュの時刻を過ぎたとはいえ、平日の上り電車は混み合っていた。都心へ向かう列車内を埋めているのはデパートへの出勤者だろうか、あるいは飲食業の人々だろうか。自分以外の誰もがやるべきことを持っていて、行くべき場所へ向かっているような気がした。車窓から見える景色が普段とは逆方向に流れていく。これで良かったのだと言い聞かせながらも、心のどこかで自分は何をやっているのか、という微かな呵責が消えなかった。
吉村は新宿三丁目の駅で降りた。外に出るとすぐ目の前のビルに入った。5階にある書店でアメリカ大リーグに関する雑誌や書籍を買い込んで、ビル内にあるカレーショップに向かう。それが休日の定番だった。何がなくとも野球があれば、とりわけメジャーリーグがあればそれでよかった。アパートでは、始まったばかりの衛星放送の大リーグ中継を観るのが日課だった。
吉村は本州最西端の山口県に生まれた。ほとんど毎日のようにテレビで巨人戦中継を見ていたが、王貞治や長嶋茂雄ではなく、なぜか「マムシ」の異名を取った五番バッター柳田俊郎が好きだった。バッジでもTシャツでも数字がつくものは何でも、柳田の背番号にちなんで36を選んだ。他の多くの少年と同じようにプロ野球選手を夢見ていた。
だが、高校に上がる頃には夢の終わりを悟っていた。もう肩が上がらなくなっていたのだ。自分には突出した才能がないことも分かっていた。そして高校1年の夏休み、テレビで早稲田実業の荒木大輔を見た。自分と同い年の男が憧れの甲子園のマウンドに立って投げている。決心がついた。その日を境に吉村はグラブを置き、グラウンドに行くのをやめた。