誰も見たことのないようなスタジアム空間を見せるために
根底には高校時代の苦い記憶があった。あの頃の前沢はチームが甲子園のグラウンドに立つ姿も、自分が聖地のマウンドに上がる姿も想像できていなかった。言葉では「甲子園に行くんだ」と口にしていたが、具体的にイメージすることはできていなかった。だが今は違う。ボールパークの細部に至るまで鮮明に思い描くことができた。
創造できるものは想像できる――それがあの失意の夏に教えられたことだった。
だから、どれだけ恨まれても、新スタジアム計画に対しての歩みを止めないと決めていた。ファイターズがつくろうとしているボールパークがどんなものか、想像できていない人々に、誰も見たことのないようなスタジアム空間を見せる――それが自分の仕事だと疑わなかった。
相棒の三谷はこの数カ月、ほとんど北海道にいなかった。プロジェクトチームのスタッフとともに東京へ足を運び、本社の役員向けの説明会を開いていた。地道で遠回りな作業のように思えたが、本社の了承を取り付けるにはまずベースボール事業の仕組みと、それが企業にもたらす意義を知ってもらう必要があった。それと並行して、ボールパーク建設への出資企業を募って交渉にもまわっていた。ただでさえ細身のシルエットがこのところはさらに細くなったような気がした。そんな三谷がふと寂しそうに打ち明けたことがあった。
不安や怖れを抱えて歩き続ける
ある朝、いつものように豊平区の自宅からゴミ出しに近くの収集場へ行くと、見知らぬ人から罵倒されたのだという。
「俺の愉しみを奪いやがって!」
そんなことがあったのだと、三谷はやるせなさそうに言った。前沢はそんな三谷の姿を見ると、逆に覚悟が固まっていった。プロジェクト自体に逆風が吹いているのは確かだったが、前沢はかつてのように独りではなかった。同じイメージを抱き、同じように悩んでいる者がいた。
大通の信号が変わった。交差点を埋めていた人々の列が動き出す。前沢は人波の後方で歩き出した。不安はあった。怖れもあった。ただ、それらを抱えて歩き続けるしかない。新しい世界をつくるとはそういうことなのだ。前沢は交差点を渡ると、いつもと変わらぬ早足で夜の街を進んだ。前をゆく人たちの背中に追いつき、追い越していった。
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