女子部員が15人いて、男子はもちろん僕1人です。男子バスケ部の横で女子に囲まれ、前回り後回りをやらされるのは死ぬほど恥かしかった。しかも、長崎市の体育大会が開催されたとき、男子体操は競技人口が5人しかおらず、何もできない僕も出場することになりました。田舎でマイナー競技をする子供は、親が元体操選手とかガチな人ばかりで、圧倒的にレベルが違う。200人くらいお客さんがいる前で、彼らが大車輪のような鉄棒技を繰り出したあとに、僕は逆上がりを披露するしかできませんでした。もう悲劇です。後にも先にもこれより恥ずかしい経験はありません。舞台で滑っても心が折れないのはこの経験のおかげかもしれませんね(笑)。
就職氷河期で100社受けても結果は壊滅的
――その後、京都の進学校である洛星高校から京都大学経済学部に進学し、同大大学院では情報学を専攻しています。社会人になる前まではどんな青年でしたか。
まつもと 中2くらいから大学院を卒業するまではいわゆる“暗黒期”でした。大学時代は、何もする気がおきず、引き篭もって惰眠を貪り、夜中に2ちゃんねるやゲームに勤しむ日々でした。自分自身もそんな生活にうんざりしつつもやめられず、鬱屈とした思いが心の奥底に染み付いていました。
――就職活動も苦労されたそうですね。
まつもと 給料が高くてモテそうな会社に行きたいという甘い発想で就活を始めたのですが、そこに就職氷河期が到来してしまった。がむしゃらに100社以上受けても、結果は壊滅的でした。最後は運が良かったんでしょうね。なんとか総務省に転がり込むことができました。
心を病んで「死なない程度に車がハネてくれないかな」
――社会人デビュー後はどんな生活を送られていたのですか?
まつもと 仕事はメチャクチャ忙しかったです。でも、仕事の待ち時間を駆使したり、睡眠時間を削って、合コン、飲み会、デートに勤しみました。全くおカネは貯まりませんでしたね。
仕事では、財務省出向中、リーマン・ショック時(2009年)に大臣の経済情勢コメントを書いたり、日本航空の経営危機時(2010年)に再建スキームを作ったりしていました。総務省では、今はフジテレビやTBSなど各局ともホールディングス体制になっていますが、その根拠となった放送法改正(2007年)を担当しました。
一時、経産省の縄張りだった内閣官房に出向した際には、月200時間残業と上司からの超絶パワハラ、そして部下からの激しい突き上げに遭い、心を病んでいました。毎朝、庁舎前の信号で「死なない程度に車がハネてくれないかな」と念じていましたね。