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「この人は無力に違いない、という社会の見方は変わる」資生堂『花椿』を経験した編集者がフリーになって考えたこと

林央子さんインタビュー

genre : ライフ, 社会, 読書

note

ファッションを日常に引き寄せる

――96年の『Baby Generation』展と展覧会公式カタログ(リトルモア)の仕事は、花椿編集室の仕事を続けながら手がけたものだったのでしょうか?

 当時の資生堂は会社にとって良いイメージを与えるものなら、社員が外部で副業のような仕事をするのはOKという社風だったんです。同期の男性で、ニュースキャスターをやっている方もいました。

 月刊誌の『花椿』を編集しているなかで、同世代の編集者やクリエイターに出会うチャンスが徐々に生まれました。それは『花椿』でよく原稿をいただいた執筆者の方々、池内紀先生のような世代の方とはまったく違う顔ぶれでした。勢いのある同世代の編集者たちがいる『STUDIO VOICE』や『DUNE』から少しずつ執筆の声がかかって、自分が書きたいことを書けるチャンスを見つけて、ガーリーカルチャーなどについて執筆していました。

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 その流れで依頼が来たのが、『Baby Generation』の仕事でした。もとはといえば、1994年秋にX-girlのファッションショーのため、キム・ゴードンとソフィア・コッポラが川崎のクラブチッタへやってくるという情報をいち早くつかんでいて、一緒に取材しない? と写真家や編集者の人たちに声をかけていた私だったんです。そんなことから、そうした文化に興味をもつ人が草の根的に増えていった、という流れがありました。

 私自身は『花椿』の編集として企画を出して、映画ライターの松田広子さんにソフィア・コッポラのインタビュー(1995年4月号)、編集者の後藤繁雄さんにキム・ゴードンのインタビュー(同、「萬有対談」)をお願いしました。当時の私はこのキム・ゴードンの取材で、はじめて「エンパワーメント」という言葉を聞いたんです。

『花椿』95年4月号のソフィア・コッポラインタビュー(『わたしと『花椿』』より)

――キム・ゴードンが94年に始めたX-girlがあって、『Baby Generation』に出てくる人たちがその後の林さんの仕事につながっていく。『花椿』でそのころ一番つくりたい企画を実現できたというニューヨーク特集(「ニューヨークのニューな部分」1997年2月号)は、アメリカン・カルチャーと距離があったという『花椿』の編集部にとってもかなり大きな変化だったのではないでしょうか。

 ニューヨーク特集はさまざまな出会いのもとになりました。なかでもスーザン・チャンチオロとの出会いは印象的で、1996年から2001年まで、スーザンが展開したRUNコレクションを夢中になって取材しました。

 この特集ではスーザンや、本でも出会いのエピソードに触れた、後に映画監督になるマイク・ミルズと、他の雑誌ではなく『花椿』で一緒にできたことが重要だったかなと思います。『花椿』で実現できないことがあると、必然的に外の世界で書くことも多かったのですが。長い準備と説得の期間を経て、ようやく自分が芯からやりたいと思う企画を『花椿』で実現できたんです。

 その少し前にも「ボアダムス」への興味から生まれた「大阪オーラ」特集(96年10月号)をつくることができて、それも当時の私がやりたかったことでした。編集長の交代で93年4月号から大規模な誌面リニューアルがおこなわれたのですが、その時期から徐々に、自分の企画が通りやすくなったということもあると思います。

――99年の『花椿合本』表紙では、市川実日子さんがスーザン・チャンチオロのTシャツとデニムスカートを着てリラックスした雰囲気でたたずんでいる。こういうことができるようになっていった、ということですよね。

 私が編集部に入った80年代の後半には、『花椿』の表紙のファッション写真はロンドンやパリで撮影していました。自分の関わりが増えるにつれて、スーザンだけでなく、当時パリコレに出てきたばかり、といった若いデザイナーの服をパリから送ってもらって日本で撮影する、というつくり方に変えていきました。編集者が取り上げたい洋服を選んで、それを日本で撮影する。ファッションを遠く離れた存在から、自分の日常に近いところへ引き寄せることができたかな、と思います。

 90年代、日本のファッション雑誌においては、ファッション的なイメージはすべて白人モデルで撮影するもの、という思い込みがありました。『花椿』編集部のなかにもそうした意向があったというのは事実です。今からすると不思議な感覚かもしれませんが、みんながそうと思い込みながらファッション誌のためのイメージをつくっていた。当時、それを変えていくのはとても大変で、長期的に取り組んだことのひとつでした。