わたしと『花椿』』(DU BOOKS)の著者である林央子さんは、資生堂の企業文化誌『花椿』(1937年創刊)で1988年から13年にわたりパリコレのファッション取材などを重ねてきた編集者。フリーランスになってからは執筆や個人雑誌『here and there』の出版、美術館展覧会の監修など幅広く活動し、近年は留学を経て、アカデミックな世界にも活躍の場を広げている。『花椿』の雑誌編集から見えてくる90年代は、フリーランスで生きていく姿勢にどんな影響を与えたのだろうか。

著者の林央子さん ©若木信吾

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『花椿』時代に立ち返ったきっかけ

――林さんが個人雑誌『here and there』をつくる前の、『花椿』時代に立ち返って『わたしと『花椿』』を書いたきっかけを教えてください。

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林央子さん(以下、林) これまで書いてきた『拡張するファッション』(P-Vine Books)や『つくる理由』(DU BOOKS)は、私が企画をしたり、「こういう内容の企画にしたい」と提案したりして、執筆したものでした。しかし、今回はまず依頼ありきでした。

 もともとDU BOOKSの編集者の方から、「林さんが書く90年代を読んでみたい」と言われていて、現実的にはそれに着手するきっかけが何かないと、日々の仕事の中でちょっと難しいかなと思っていました。

 タイミングが巡ってきたのは、2018年に映画監督のソフィア・コッポラが『ビガイルド 欲望のめざめ』公開に合わせて来日したときでした。ソフィアが映画監督になって20周年を迎えたということで、記念写真集を作りたいという依頼があって、アンドリュー・ダーハムが撮影したメモリアルブックを私の編集によって、やはりDU BOOKSから出すことになったんです。

 その一連の取材のとき、現役の『花椿』編集者だった戸田さんという方にお会いしました。彼女は当時『花椿』でソフィアの記事を担当していたので、「95年の『花椿』で、映画監督になる前というごく早い時期にソフィア・コッポラのインタビュー記事を企画された当時の編集者だった林さんに、お話を伺いたいと思っていました」と話をしてくれました。

 資生堂の元同期だった女性が『花椿』編集長に就任して、メールのやり取りをしていたタイミングだったこともあり、久しぶりに『花椿』の紙媒体の執筆や、ウェブで90年代の花椿編集室のことをエッセイにすることを勧められたのがきっかけです。

――『わたしと『花椿』』の執筆にあたって1995年の『花椿合本』(1年分をまとめて綴じたもの)をたびたび手に取ったそうですが、林さんにとって95年はどういった時期で、どんな仕事が印象に残っていますか?

 『Baby Generation』という展覧会を渋谷パルコで実現したのは1996年春ですが、その準備のようなことをしていたと思います。バンド「ソニック・ユース」のキム・ゴードンや女優で写真家のソフィア・コッポラ、現代アート作家のカレン・クリムニクらが参加した、とても印象深い仕事でした。私が1993年秋にパリコレ取材に通いはじめた頃、『花椿』はヨーロッパのモードを報道していましたが、私はその反動のように渋谷の街角で見かける日本人の若い男女のストリート・ファッションに夢中になっていました。

『Baby Generation』(リトルモア)

 当時LAから発信されていたユースカルチャーはすごく魅力的で、それはTシャツなどの日常着や音楽シーンと密接に関係したムーブメントでした。94年の秋にキム・ゴードンがX-girlをはじめたニュースをアメリカの雑誌記事から見つけました。自分が興味のあった、そのアメリカのユースカルチャーやオルタナティブ・シーンの動向を『花椿』のコラムなど小規模な記事を通して形にしていた時期かな、というのが95年頃です。また『花椿』以外の雑誌に、署名原稿を執筆する活動も始めていました。