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「この人は無力に違いない、という社会の見方は変わる」資生堂『花椿』を経験した編集者がフリーになって考えたこと

林央子さんインタビュー

genre : ライフ, 社会, 読書

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90年代をいま書いたことへの反応

――雑誌編集から見えてくる90年代をいま書いたことに対して、書店からはどんなレスポンスがあるのかと気になりました。トークイベントとフェアを企画した青山ブックセンター本店の髙橋さんに伺ったところ、「『Y2Kファッション』などの2000年代カルチャーがまさに流行している時代の流れもあって、雑誌の『花椿』体験を記憶している人や、フリーペーパーとして知っている若い人など、『花椿』に関心をもつ幅広い世代の人が90年代当時の文化や自由な空気を知りたくて、手に取っているのではないかと思います」と話していました。

『わたしと『花椿』』(DU BOOKS)

 『花椿』を通して知る90年代は、「ファッションが文化になっていった時代」といえるのではないか、と本に書きました。雑誌から得る情報が自分の価値を高めてくれると多くの人が信じていた時代のことです。

 90年代以降は、ファッションを考えていく上で、服と本の両方で捉えることが必要だなと思っているんです。70年代であればヒッピー的なスタイルを装っている人は、外見からその人の思想までも、ある程度は汲み取れたと思うんです。反体制や、親の世代とは違う自由を求めていて、そこに風俗としてのファッションがあった。一方で90年代以降は、パンクやモッズの格好を取り入れていても、必ずしもそれはその人の信条を代弁しているわけではない時代を迎えていた、と分析しています。

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 90年代に登場したファッションの先鋭的なつくり手たちは、当時のマルタン・マルジェラやBLESS、スーザン・チャンチオロといった人々ですが、活動をアーカイブするZINEや雑誌、本をデザイナー自身の活動としてつくっていたんですよね。

 さらに30年経った2020年代はなおさら、服装だけで何かを語るという時代ではなくなっていると思います。何かを表現したい人や声をあげたい人たちは、インターネット社会になった現在でもZINEや雑誌、紙の媒体をつくっている。自分たちに興味を持ってくれそうな人が、その出版物を手に取ったときの交流を想像したり、興味や関心を共有できるコミュニティをつくってみたいと願う。そこには、ウェブで自分たちのステートメントを出すだけでは終わらない「相互交流」への欲求があるのかな、と思っています。

 東京都現代美術館で開催されたオランダ人女性アーティストの「ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台」では、ZINEをつくる若い日本の人たちが「雑誌でやってみたいことを話す」という趣旨のイベントが、会期中頻繁におこなわれていました。いまの時代に、雑誌というものをつくりたい人たちが交流できる場を、アーティストが展示の一環としてつくっていることが興味深いです。

会社を離れた頃に、覚えていること

――林さんが個人雑誌『here and there』創刊号をつくったのは2001年に会社を離れたあと、2002年の春でしたよね。この頃に覚えていること、「こんな風なものをつくっていきたい」と思っていたことはありますか?

 当時の私としては、雑誌『Purple』をつくっていた編集者、エレン・フライスとの対話として、エレンが『Purple』に持ち込んだ要素である、実験的なアーティストのコレクティブとしての編集や出版活動を自分なりに展開したい、という思いがありました。エレンとは、パリコレ出張をするたびに連絡をとりあい、たくさんの時間をともに過ごしていました。

 スーザン・チャンチオロという、ファッションからキャリアをスタートした、枠にとらわれないつくり手との対話も、私にとっては『here and there』の構想をかためる上でとても大きなことでした。枠にはまらない彼女のようなつくり手を報道していくには、通常のインタビューのようには形が決まりきっていない、より自由な発信スタイルが必要だと実感していました。

林さんがスーザン・チャンチオロと交わしたFAXや手紙の数々(『わたしと『花椿』』より)

『花椿』のページをつくるためには、人物を取り上げるときに、どうしてもポートレートの撮影が必要でした。一方で私が興味をもつ人は、写真を撮られることを必ずしも好まない人も多いし、私もなぜ顔写真が必須なのか理解できずにいました。『here and there』の誌面では、ポートレート写真のかわりにスーザンから届いた手紙の封筒を交流の証として掲載する、といった実験的な編集を取り入れました。