細野「そう、そこに気づくともう新しい名前を考えるのがめんどくさくなっちゃう。とくに、YMOの活動がHASYMO以降はひんぱんになってきて、その度に名前を考えるというわけにもいかなくなってきた。もう名前を考えなくてもいいじゃないか、YMOでいいんじゃないかと」
HAS以降、それなりの期間(かつてのYMOよりも長い!)の活動を共にしてきた3人。80年代のYMOの息苦しさもあった関係とちがい、ほどよい距離感でお互い独立したアーティストとして尊敬の気持ちで接することができるようになったからこそのYMOという名義の使用だろう。
これはとくに坂本龍一において顕著で、1980年代の鋭い刃のような他への接し方、とくに細野晴臣への接し方が変わっていた。
「デリック・メイ(デトロイト・テクノの創始者のひとり)はすごいYMOファンで、会うたびにYMOの珍しい話をしてくれなんてせがまれる。あるとき、意を決してこれは誰も知らないことなんだけど、80年代はぼくと細野さんは仲が悪かったんだ。そう打ち明けたら、彼はそんなことは100年前から知ってる、ファンはみんなわかっている、だって(笑)」(坂本龍一・2018年)
細野晴臣も1980年代、とくに『BGM』を作っていた頃は、なにかにつけて反発してくる坂本龍一には手を焼いていたと明かす。
「そう、たとえば『BGM』のレコーディングのときかな。ぼくが先にスタジオに来て仏教の本を読みながらみんなを待っていたら、坂本くんが入ってくるなり、その本を見て宗教は麻薬だ!と怒ってスタジオから出ていって、その日はもう戻ってこなかった(笑)」(細野晴臣・2015年)
3人が史上最高に仲良くなった日
歳月は人を変え、気持ちを溶かす。
この2009年1月、細野晴臣は青山のライヴ・レストランCAYでマンスリーのレギュラー・イベント『デイジーワールドの集い』を始めたが、その4回目の4月27日、予告なしの飛び入りで坂本龍一が姿を現し、即興に近い形で細野晴臣とセッションを行った。曲は「ノルマンディア」。一説によると1980年代、細野晴臣が坂本龍一を意識して作ったと言われるCM曲だ。坂本龍一のピアノと細野晴臣のギターによるふたりだけのセッション。
かつてのYMO時代には考えられなかった、初めての時間だった。
また、高橋幸宏と坂本龍一は、年がほぼ同じということもあってYMO時代からこだわりのない交流を続けてきた。しかし、同じ2009年秋には異例のこともあった。この頃は東京、ニューヨークという居住地の距離と時差が関係のないSNSでも交流をしていたふたりだが、なにかのはずみでこの年の秋、YMO時代の思い出話で盛り上がった。
その余韻だろう。ヨーロッパでピアノ・ソロ・ツアー中だった坂本龍一は11月30日のロンドン公演で、突然、高橋幸宏作のYMOナンバー「中国女」を弾いたのだ。自身のソロ・ライヴで、自分の作品ではないYMOの曲を弾いたのはこれが初めてという快挙だった。ちなみにこの「中国女」の前後には「ビハインド・ザ・マスク」と「千のナイフ」を演奏するというロンドンのYMOファンには感涙の時間だった。
いつのまにか、YMOの3人はYMO史上最高に仲が良くなっていたのであった。
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