おとぎ話と「冷戦」、そしてモンスター
繰り返される日常で、いつも何かを待っていたイライザは、“白雪姫”であり“眠れる森の美女”であり“シンデレラ”の末裔だと言える(しかし、そんな古典的なおとぎ話で終わらないところが、この作品のすごいところなのだ。その点については後述する)。
だから二人は、次第に距離を縮め、親密になり、恋に落ちる。
そこに、半魚人の特殊な身体を冷戦の道具として使おうとする米ソの思惑が絡んでくる。
寓話的でありながら、エロからもグロからも目をそらさない大人のファンタジーを語り、東西冷戦の謀略というポリティカルでサスペンスフルなアクションも描く。まさにデル・トロでなければできない、作家性とポピュラリティーを兼ね備え、さらに過去のモンスター映画への愛に溢れたエンタテインメントなのである。
これは、現在のエンタテインメントの世界において、奇跡的なことだ。
デル・トロは映画の全てに関わり、あらゆる細部に目を配り、自らの手を加えた。映画という生き物を構成する細胞の全てにデル・トロが宿っているのだ。
ハリウッドで作家性を出すという困難
監督はもちろん、製作、原案、脚本にも彼の名前がクレジットされている。声の出演もしていれば、キャスティングも主導している(イライザのキャスティングは、サリー・ホーキンスと出会ったデル・トロが“一目惚れ”で決めたそうだ)。作品のスタート地点である川上(アイディアや構想)から、観客に届ける川下(ポスターのビジュアルまで含めたプロモーション)まで、全てに関わっている。
だからその作品にデル・トロというクリエイターの作家性が宿り、滲み出てくるのは当然だ。
しかし、ハリウッドのような巨大映画産業の世界で、デル・トロのように行動し、作品の全てに関わることはますます困難になっている。
偉大な先達であるジョン・カーペンターやジェームス・キャメロンたちは、作品の企画から脚本、デザイン、キャスティング、撮影、編集、音楽に至るまで、あらゆる局面で目を光らせて、彼らにしか作れない「カーペンターというジャンルの映画」「キャメロンというジャンルの映画」を世に送り出した(キャメロンの映画キャリアのスタートが特殊効果スタッフだったように、デル・トロも特殊メイクのスタッフとして映画に関わったことは、偶然の一致とはいえ、興味深い)。
デル・トロと同じ考えやマインドを持った、ニコラス・ウィンディング・レフンやニール・ブロムカンプのようなインディーズで活躍する、作家性とエンタテインメント性を兼ね備えたクリエイターは存在する。
しかし、利益を追求することが第一に求められるハリウッドでは、彼らのようなクリエイターは苦戦を強いられる。これは、グローバルな市場でしのぎを削るゲームの世界でも同じだ。
そこは、「シェイプ・オブ・ウォーター」の政府研究所と同様に、マジョリティーの、昼の世界の理論が支配する世界だ。