“よそ者”はいつだって僕たちなんだ
ギレルモ・デル・トロは、どうして昼と夜を往還できたのか?
それは彼が映画を愛し、映画に愛されているから、としかいいようがない。ヴェネチアでの金獅子賞をはじめとする、多くの賞へのノミネートや受賞は、その象徴であり、それはまた、映画やゲームといったクリエイションに取り憑かれたクリエイターたちにとっての、まさに希望だ。
デル・トロは、これまでの血がにじむような経験により、昼と夜のそれぞれの利点と弱点を知り尽くしている。だからこそ、栄光を手にした。しかし、彼は眩しい昼の世界に行ったわけではない。夜の世界に光を当て、商品や製品ではない、創作物という豊かな世界を、多くの人にその形が見えるようにしたのだ。
半魚人と口のきけない女性の物語は、創作(クリエイト)の物語「シェイプ・オブ・クリエイター」でもあった。
しかし、これは夜の世界のデル・トロが、昼の世界の成功者となって君臨するお話ではない。マイノリティーが実は昼の世界のエリートだった、という話ではないのだ。
実は白鳥だった“みにくいアヒルの子”、実は王子だった“美女と野獣”のような物語ではない。「実は〇〇でした」というおとぎ話の決着を否定してみせた映画は、これまでに『シュレック』しか観たことがなかったが、本作はそのさらに上を行く。
人間の王子に恋をした人魚が、自分の声と引き換えに脚を得る“人魚姫”とは違い、イライザは最初から声を失っているし、半魚人は半魚人のままだ。彼らは、みにくいまま(ピュアな美しさのまま)、野獣のまま、声を失ったまま、愛し合う。
それこそが、デル・トロの描く “愛のかたち”なのだ。
デル・トロ自身がこう語っている。
「僕は信じている。僕たちは互いに愛し合うことができる一方、“違っている”ことや、“よそ者”であることを恥ずべき存在だとする者たちと距離を置くこともできるのだ、と。(略)僕たちはつまり、僕以外と常に合わせ鏡にある。“よそ者”はいつだって僕たちなんだ」(『ギレルモ・デル・トロのシェイプ・オブ・ウォーター/混沌の時代に贈るおとぎ話』序文より)
これは、映画に愛されたクリエイターが作った、“愛と映画”を愛する人のための映画である。