途中、私は電車の中で思わず声を出して噴き出しそうになったり、唸ったりしてしまうのを必死に堪えたが、途中で電車の中で読むのを断念し、帰宅してから安全(?)な環境で読了するに至った。
母との葛藤と繰り返される離別
植村さんは鹿児島県薩摩川内市出身。菜種油の大きな工場を経営する家に生まれた。父は東京工業大学を卒業しているが、その9人兄弟も当時としては珍しく全員大学を出ており、これは祖母が教育を非常に重視した影響だったという。しかし、このことは彼女に学歴にまつわるコンプレックスを残すことともなったのだが……。小中高を地元で過ごしたあと、鹿児島女子短大を卒業し、その後東京に出て来ることになった。
小学生のときに父を交通事故で亡くしており、そのことを高校生のとき、作文に書き残している。損保協会の作文コンクールで全国3位を受賞した文章が、先ほどの本の中に再録されている。それを読むと、この本が彼女の自らの手で書かれたもの(文章が巧いのである)であることが良くわかる。
父の死後、親戚のところに預けられたりもしつつ決して平坦とはいえぬ子ども時代を過ごしたが、一人っ子の自分を立派に育て上げようとする母のスパルタ教育は、時として行き過ぎた虐待だった。誰にも虐待を悟られないようにと、殴られた痕を母のファンデーションで隠しさえした。著書の中では「ドイツのナチスに育てられているようだ」と記されているが、この母との葛藤が植村さんの人生に大きな影を落としてきたのだった。
二足の草鞋に疲れ、鹿児島に戻って結婚
中学生の頃に東京の芸能事務所からスカウトされたこともあったが、大学までは鹿児島でという母の言葉に従い、キャンパスクイーンなどにも選ばれる華やかな短大時代を送り、卒業とともに上京した。
東京ではオーディションに受かって高津住男と真屋順子が主宰する劇団・樹間舎に入団したが、付き合っていた男性の借金を返すため教材販売のセールスも始め、いつしか日本一の売り上げをあげるまでになった。お金は必要だったが水商売だけはどうしてもイヤで、「男に媚びる職に就くよりは飢え死にを」とまで思っていたという。