しかし、4年間の二足の草鞋に疲れた彼女は26歳のときに鹿児島に帰って最初の結婚をし、すぐに初めての子どもを授かったのだった。
このときの子・隆太郎さんは、その後、地元の大学の歯学部を卒業し、植村さんを医者にしたかった亡き父の思いを継ぐように鹿児島で歯科医をしている。
8坪で食事処をいきなりオープン
鹿児島では旦那さんが公務員を辞めて始めた会員制の麻雀クラブを手伝い、3年後には待望の女の子を授かった。しかし、30歳になった植村さんは、いつしか受け身ではなく主体的に自分で何かをしたいと強く思うようになった。
先述の母との葛藤もある。心の中にわだかまる虚無感を埋めるためにも、植村さんは夫にも黙って、鹿児島市随一の盛り場である天文館で「酒彩おかえりなさい」という食事処をいきなり始めたのだった。2人目の子どもが生まれて間もない1995年、8坪の店舗からの出発である。このときはまだ、水商売をやるつもりは一切なかったのだが。
当然、店をオープンして3日で夫の知るところとなったが、彼は何の不満もなく応援してくれたという。店はすぐに評判になって繁盛したものの、さまざまな試練もあった。天文館の有名クラブのベテランホステスに店内で頭から味噌汁をかけられ、味噌汁の具のえのきを髪飾りに仕事を続けた日もあったという(このくだりは本の中で最も強い印象を残す箇所の1つである……)。
男性との付き合いを9年間封印
この頃、最初の旦那さんと離婚することになる。植村さんは「自分自身の一方的な気持ちで、最も優しかった主人に別れを告げてしまい、いま考えると本当に自分勝手な女だったな」と心を傷めているという。その後、「酒彩おかえりなさい」に毎日来ていたお客と2度目の結婚をすることになった。19年後に彼にも、自ら別れを告げてしまうのだが、自分の人生の中では「最初で最後の恋だったかもしれない」と植村さんは話すのだった。
繰り返される離別は、強烈な母との葛藤から生じた心の虚無感の成せるわざだったのかもしれない。東京に来てからは「贖罪」の意味も込めて男性との付き合いを9年間封印すると心決めして現在に至っているが、最近では「武士のように」思い定めて厳しく自らの身を戒めるだけでなくても良いのではないかと思い始めているともいう。