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W・ディズニーの「日本人とは二度と仕事をするな」発言を乗り越え、東京ディズニーランドを完成に導いた1人の女性 舞台はわずか13坪の銀座の高級クラブ《きょう開園40周年》

W・ディズニーの「日本人とは二度と仕事をするな」発言を乗り越え、東京ディズニーランドを完成に導いた1人の女性 舞台はわずか13坪の銀座の高級クラブ《きょう開園40周年》

2023/04/15

genre : ライフ, 歴史, 社会

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 千葉県・浦安市に「東京ディズニーランド」(TDL)が開園したのはいまから40年前、1983年4月15日のことである。

 開園に先立ち、関係者に向けたプレ・オープニングが始まったのは同年3月18日。そこに、招待状を手にした1人の女性の姿があった。

 女性の名は田村順子(当時42歳)。当時、銀座を代表する高級クラブの若きオーナーであった順子ママがなぜ、そこにいたのか。TDL開業に至るまでの秘史を紹介する。(取材は2017年)

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「クラブ順子」開店3周年を迎えた1968年当時の順子ママ

 日本が第1次オイルショックのさなかにあった1974(昭和49)年、銀座・数寄屋通りの高級クラブ「順子」に、1人の米国人男性がやってきた。

 男性の名はディック・ヌーニス。米国のウォルト・ディズニー・カンパニー本社で遊園地担当副社長をつとめていた大幹部である。ヌーニス氏を接待したのは1960年に設立されたオリエンタルランド(OLC)や、OLCの大株主であった三井不動産の担当者であった。

 日本国内では1960年代から米国ディズニーランドの誘致合戦が繰り広げられていた。建設地として特に有力だったのは2候補で、OLC(京成電鉄と三井不動産連合)が推す千葉県浦安町(現・浦安市)と、三菱地所が推す静岡県清水市(現・静岡市清水区)が、激しく競り合う構図だった。

「東洋に“夢の国”を――」

 この世界初となるミッションを当初、優位に進めていたのは「富士山麓」を主張していた三菱地所だった。しかし、立地条件や気候面を重視したディズニー本社は1974年、最終的に候補地を浦安に決定した。

 だが、本当に大変なのはそこからだった。ディズニー本社は、交渉権を得たOLC側に高額のロイヤリティや、米国版パークの完全再現を要求しており、完全な妥結には相当な労力が必要になることは目に見えていた。

2003年4月、ディズニーランド開園20周年を記念して行われた記念イベント ©共同通信社

 OLCは、悲願達成のためのキーマンであったヌーニス氏への懐柔プロジェクトをいち早く開始した。その一環が「歴史は夜作られる」という、昭和の時代に全盛を誇った日本流の接待である。

「ゴルフの“帝王”ジャック・ニクラウスさんに似た方でよく覚えております。初めてお見えになったときからヌーニスさんは私のお店を気に入って下さり、その後も贔屓にしていただきました」

 そう回想するのは順子ママ本人である。