数寄屋通りの地下1階、わずか13坪の店内に流れるのは映画『ティファニーで朝食を』の劇中歌『ムーン・リバー』。隠れ家のようなこの店に魅入られたヌーニス氏は、仕事の話は後回しにして、順子ママとの会話を好んだという。
「ママ、やったよ。本当にありがとう」
ヌーニス氏のゴキゲンな表情を見て手ごたえを感じ取ったOLCの担当者は、順子ママの手を固く握り、こう続けた。
「ママ、副社長は“着物が美しい”と言っていた。これからも副社長の日は着物でお願いしたい。今後は必ず、ここに連れてくる」
その言葉通り、その後ヌーニス氏は1カ月に1度のペースで来日するようになり、夜は必ず「順子」でのひとときを楽しむようになった。
「私は英語があまり上手ではありませんでした。いつも会話がギクシャクしていたのを悩んでいたところ、夫の浩治さん(和田浩治=俳優、1986年に死去)が英和辞典や英会話の本を私のために買ってきてくれました」(順子ママ)
辞典を片手に「出勤」した順子ママを見て、ヌーニス氏は笑って言ったという。
「ジュンコ、ルック・アット・ミー。言葉は分からなくてもいいんだ。目を見て話すことが大事だ」
ヌーニス氏との意思疎通のため、英会話を学び始めた順子ママの姿を見たOLC幹部はその接客力に感嘆し、「水商売」と下に見ていた自分の認識を恥じたという。ディズニーランドは、来園者を「カスタマー」ではなく「ゲスト」と呼ぶ。大切なゲストを招き、もてなすという意味で、ヌーニス氏と順子ママの仕事はまったく同じだった。
ディズニー本社が終始、強気の要求を日本側に出していた背景のひとつに「奈良ドリームランド」(2006年に閉園)の問題があった。
1961(昭和36)年に開業した奈良ドリームランドは、当時「東洋一の遊園地」との触れ込みで大人気を博したが、この遊園地は外観を見て分かるように米国ディズニーランドをモチーフとしたものだった。本来「元祖日本版ディズニーランド」となる予定だったところ、そうはならなかったのがこの遊園地なのである。
奈良ドリームランドは、本場米国のディズニーランドを見た実業家の松尾國三が「日本版ディズニーランド」を構想し、米国本社の技術協力を得て建設されたものだった。
だが、ディズニー本社があくまで「日本人独自のパーク」という認識でいたのに対し、松尾は「ディズニーランドのフランチャイズ」と考えており、コンセプトに関する重大な齟齬は、松尾が「ディズニーランド」を名乗るための許可申請を出すまで表面化しなかった。