結局、ディズニー本社は松尾の申請を却下し、奈良ドリームランドはディズニー風味の日本の遊園地としてオープンしたが、これを知った生前のウォルト・ディズニーは激怒し、「日本人とは二度と仕事をするな」と社内に厳命したという逸話が残されている。
そのウォルト・ディズニーは1966年に他界したが、米国本社の日本人に対する警戒感は消えておらず、OLCは「反日感情」の強かった本社を相手に粘り強く交渉していく必要があったのである。
1970年代の半ば、月に1度は「順子」に顔を見せていたヌーニス氏がパタリと来なくなったことがあった。
OLCの幹部が、暗い表情でウィスキーをあおった。
「正直言って交渉が暗礁に乗り上げている。次に来日してくれるのがいつか見えなくなった。ママ、副社長に手紙を書いてくれないか。我々のお願いは聞いてくれないが、ママが言えばその限りではない」
「どんなお手紙がよろしいですか」
「それは任せる。とにかく、副社長が日本に来てくれたらいい」
順子ママは、つたない英語でこんな手紙を書いた。
<親愛なるヌーニスさん、順子です。お仕事のことはお忘れになって、ぜひもう一度、私どものお店にお越しください。いつでもお待ち申し上げております>
それから数カ月後、ヌーニス氏は予告もなく「順子」にやってきた。後ろには、顔を輝かせたOLC幹部もいる。ヌーニス氏は笑みを浮かべながら、こう語った。
「ジュンコ、手紙をありがとう。約束を守りに来たよ」
「本当に来てくださいましたのね」
「もうすぐ、トーキョーにパークができるだろう。そのとき、忘れず作らなきゃいけないものがある」
「なあに、それ」
「君の銅像だよ。費用は彼らが出してくれるさ」
ヌーニス氏は、後ろに立つOLC幹部を振り返り、いたずらっ子のような表情を作ってみせた。
1979(昭和54)年4月、OLCとウォルト・ディズニー・プロダクションズとの間で最終契約が交わされ、1980(昭和55)年に起工式が行われた。1983年の開園前、ヌーニス氏から順子ママに「招待状」が届けられた。それは日本流のもてなしに感銘を受けたヌーニス氏の「感謝のしるし」に他ならなかった。
世界的テーマパークの誕生に、ささやかな貢献を果たしたクラブ「順子」はコロナ禍の2020年、惜しまれつつ閉店した。ヌーニス氏はその後、ディズニー・アトラクションズの会長を務め、「ディズニーのレジェンド」としていまも健在である。