日本人女性として4人目(それ以前に美空ひばり、長谷川町子、高橋尚子)となる国民栄誉賞を受賞した女優・森光子(本名・村上美津)が他界したのは、2012年のことである。
戦中、戦後の激動を生き抜き、代名詞の舞台『放浪記』主演は45年間で2000回を数えるなど、日本の演劇、芸能史に輝かしい足跡を残した森光子は、仕事に生涯を捧げた職業人だった。
「私が初めて森光子さんにお会いしたのは1965年のことでした」
そう振り返るのは「クラブ順子」の田村順子ママである。
「当時、山口洋子ママの経営する『姫』に在籍していた私は、常連客の1人であった三木のり平さんに誘われ、森さんが出演する舞台の楽屋を訪ねることになったのです」
「ミッチャン、ちょっと来て。今日は君の娘が来たよ」
東宝の『社長シリーズ』や『駅前シリーズ』に出演していたコメディアンの三木のり平は、後年『放浪記』の演出も手掛けるなど、森光子とは舞台共演も多く近しい関係にあった。
三木は「姫」の看板ホステスだった23歳の順子にこう持ち掛けた。
「順ちゃん、明日は絣の着物を着て、日比谷の芸術座においで」
「ど、どうしてですか……」
「ミッチャンを驚かせたいんだよ」
翌日、言われるままに楽屋を訪れた順子を、三木が手招きして呼び入れた。そこには、すでに人気女優の評価を不動のものにしていた森光子が出番に備えていた。
「ミッチャン、ちょっと来て。今日は君の娘が来たよ」
森は着物姿の順子を見ると、目を見開いて大笑いした。
「あらほんと、似てるわねえ」
「だろう? 順ちゃん、もしかすると君はミッチャンの隠し子かもしれないな」
森があきれたような顔で言った。
「いやだ、私は別れたばかりなんですよ……」
森光子は1959年、元NHKプロデューサーの岡本愛彦と結婚したものの、4年後の1963年に離婚している。結婚生活よりも仕事を優先した森とのすれ違いが原因だったとされるが、1961年にスタートした『放浪記』が大きな反響を呼んだことが、皮肉にも離婚の一因になったことを後に森光子本人が認めている。