森光子は決して「良家の子女」ではなかった。長年、時代劇スター・嵐寛寿郎の姪として芸能活動を続けてきたが、紫綬褒章を受章した1984年に、祇園の芸妓と紡績会社社長の御曹司との間に生まれたことを公表している。
誰からも愛された国民的女優の原点は、徒手空拳で挑戦を続けた長き下積み時代にあり、森光子は出自や職業で他人を見るような思想を持ち合わせていなかった。誰に対しても態度を変えなかったそのふるまいは、順子ママに大きな感銘をもたらした。
「おそらく、森光子さんは私から『実は一度、お会いしたことがございます』と切り出されるのをよしとしなかったのだと思います。『誰だったかしら?』という態度は恥ずかしいと考えておられた気がします。私はその日から、たった1度でもお店に来ていただいたお客さんを、10年たっても忘れてはならないと心に誓いました」
森光子の人間愛に満ちた人柄をあらわす逸話は多い。長年司会をつとめた『3時のあなた』では、芸能人のスキャンダルが扱われることが多かった。しかし森は「話題を扱うのは仕方ありません。ただ、そのとき私は黙っています」とプロデューサーにはっきりと断りを入れたという。
同番組で森と司会をつとめた須田哲夫・元フジテレビアナウンサーは「相手が大スターでもスタッフでも、敬意をもって同じように接する。そんな森さんだからこそ心を開いたゲストも多い」(森光子公式サイト)と証言している。
田中角栄が流した大粒の涙の理由は…
ロッキード事件で1976年に逮捕され、被告の身になっていた田中角栄元首相に森光子が話を聞いた、軽井沢プリンスホテルにおけるインタビュー(1984年)はいまも語り草だ。
ジャーナリズムの集中砲火を浴び、あらゆる取材を断っていた角栄が「森さんなら」とインタビューに応じたのだ。極めて異例の「角栄インタビュー」は、その実現が大きなニュースとなり、あらゆる報道機関が見守るなかで始まった。
森光子が「手負いの角栄」に聞いたことは、ロッキード事件についてではなく、家族、戦争、そして恋愛についてだった。1時間の予定を過ぎてもインタビューは終わらず、2時間、3時間と続き、やがて一国の宰相をつとめた男は大粒の涙を流して深く頭を下げた。
「記者の取材を受けると、怒らせることをわざと聞いてくる。ただ、あなたは誠実で真摯だった。本当にありがとう」
角栄はこのインタビューの翌年、脳梗塞に倒れ、森光子による取材が実質的に最後のインタビューとなった。