未知の写真家から一冊の本が送られてきた。
タイトルは「ボーダー/コリア」とあり、カーテンを前に二人の少女が写っている。だが、よく見ると、それは一枚ではなく、二枚の写真のようだ。一人の少女の服装から、なんとなく北朝鮮の内部を撮った写真集なのだろうと思いながらページを繰っていくと、見開きに一枚ずつ、二枚の写真が並べられている。そこには、二人の赤ん坊、二人の少年、二組の器楽演奏隊などが写っている。よくこれだけ北朝鮮の人々を撮ることができたなといくらか感心しながら見ていくと、不意に「あっ!」と声を挙げたくなる瞬間が訪れた。
もしかしたら、これは北朝鮮の人々“だけ”を撮ったものではないのではないか?
さらによく見てみると、左のページに写っているのは明らかに北朝鮮の人々のようだが、右側に写っている人々の服装はそれよりいくらか洗練されている。
慌てて本の最後にあるデータを調べると、左側の写真は北朝鮮だが、右側の写真はすべて韓国で撮られていた。ページを分かつ本の「ノド」が三十八度線を意味していたのだ。
それがわかると、見開き二枚の写真がまったく異なる意味合いを持って迫ってくるようになった。二人の警察官、二人の僧侶、二か所の海水浴場……。
その最大の衝撃は、二枚の写真の相違性ではなく同質性だった。確かに、着ている服や街の佇(たたず)まいは違っている。だが、写っている人々は左右ほとんど変わらないのだ。二つに分断されているとしても、一つの民族である。普通に記念写真風の写真を撮っていけば、差異が見つけられないのも当然のことだったのだ。
そして、次に驚かされるのは、撮られている北朝鮮の人々の自然さである。カメラを前にした緊張はあるものの、私たちがテレビ映像で見ているあの硬直した表情や身振りとは無縁の自然さがある。あたかも普通の人々の普通の息遣いが聞こえてくるかのようだ。
そこで私たちは思うことになる。北朝鮮にも韓国と同じ人々が生きている。そして、それはほとんど私たち日本人とも変わらない普通の東アジア人だと。
いま、北朝鮮の「核の脅威」論の前に、アメリカの先制攻撃を密かに待望するような空気が日本に醸成されつつある。だが、それによって最初に傷つくのは、ここに写っている、韓国人と同じ、日本人と同じ、北朝鮮の普通の人々なのだ。菱田雄介のこの写真集にはいっさいキャプションは付されていないが、声低く、そんなことを語りかけているようにも思える。
ひしだゆうすけ/1972年東京生まれ。写真家・映像ディレクター。写真集に『2011』、『アフターマス~震災後の写真~』(飯沢耕太郎氏との共著)、『BESLAN』、『ある日、』がある。受賞歴多数。歴史とその傍らにある生活をテーマに撮影を続けている。
さわきこうたろう/1947年東京生まれ。作家。近著に『春に散る』『キャパへの追走』『波の音が消えるまで』『流星ひとつ』等。